孤独なログ探偵
日曜日。
今日は佐伯さんと会う予定が元々なかったため、俺は朝早くからひとりでオフィスへと足を運んでいた。
誰もいないひんやりとしたビルに入り、一階の守衛室へ営業所の入り口の鍵を受け取りに行くと、ガラスの小窓から、顔なじみの守衛である井上さんに、にこやかに声をかけられる。
「成瀬さん、おはようございます! 今日は一段と早いですねぇ」
「井上さん、おはようございます。世の中はお休みなのに、お互い朝から仕事ですね」
そんな無難な大人の会話を交わしながら、カウンターに置かれた鍵の借用簿へと手を伸ばした――その瞬間、俺の指先が、凍りついたようにピタリと止まった。
……待て。これに、俺の名前を残していいのだろうか
脳裏に冷たい警告が鳴り響く。
この借用簿は、次に鍵を借りに来た人間の目に、嫌でも「前に誰が借りたか」の記録が入ってしまう。
もし犯人がこのオフィスの中にいるとして、俺がこのところ毎週のように休日に出勤していることを知れば、こちらの「裏の調査」に勘づいて証拠を隠滅してしまうのではないか――。
言い訳を考えて、じわりと冷や汗が滲みかけた、その時だった。
「あ! そうでした! 成瀬さん、名前は書かなくて大丈夫です!」
井上さんの突然の言葉に驚きながら、俺はガバッと顔を上げた。井上さんは目元の皺をクシャクシャにして嬉しそうに笑いながら、言葉を続ける。
「高橋所長から事前にきつく頼まれてたんですよ。『成瀬は今、休日も社外に漏らせない超重要で集中しなきゃいけない仕事を任せてるから、借用簿に名前は書かせず、顔を見たらすぐに鍵を渡してやってくれ』って!」
……あいつ、そこまで読んで先手を打ってたのか。
完璧な手回しの抜かりなさに、一瞬呆気にとられてしまう。
あいつは所長としての権限をフルに使って、俺の身の安全と調査の極秘性を最初から担保してくれていたのだ。
俺は「ありがとうございます」と頭を下げ、銀色の鍵を受け取ってエレベーターへと向かった。
だが、目的の階へと昇るエレベーターの密室の中で、俺の脳細胞は、またしても制御不能な暴走を始めていた。
待てよ。……井上さんが犯人の可能性は、本当にゼロなのか?
いや、そもそも社内システムへのログインIDすら持っていない人物だ。
だが、誰もいない夜間の事務所内を見回れる立場なら、社員のデスクのメモからIDとパスワードを盗み出すことくらい、容易にできてしまうのではないか。
他人のIDでなりすまして情報を引き出していれば、ログには絶対に井上さんの名前は残らない――。
チン、と電子音が鳴り、目的の階でエレベーターのドアが開く。
薄暗い廊下へと一歩踏み出した瞬間、俺は、はたと、自分の足を強制的に止めた。
今まで廊下にコツコツと響いていた自分の足音がピタッと消え去った瞬間、いつもより意図的に暗く落とされた照明の中、鼓膜を圧迫するような不気味な静けさが、津波のように一気に襲いかかってきた。
……何やってんだろうな、俺は……
我に返り、頭を抱えたくなった。
安田にあの密告をされて以来、今の俺は、職場で接触する人間、すれ違う人間のすべてを、こうして無意識のうちに「犯人かもしれない」と仮定して、裏の顔を勘ぐり、勝手に脳内でプロファイリングして考え込んでしまっている。
笑顔の藤田も。頼れる高橋も。可愛い優愛ちゃんも。そして、大好きな佐伯さんや、さっき笑顔で鍵をくれた井上さんすらも。
その醜い猜疑心に気づいた瞬間、腹の底から強烈な自己嫌悪が湧き上がって、じわじわと胸が苦しくなる。
しかし、どれだけ反省しても、明日出社してまた誰かと接触するたびに、同じ思考の泥沼を自動的に繰り返してしまうのだ。
もう、完全に病気だな、俺は……。
俺は冷たい鍵をポケットの中で強く握りしめ、冷房の入っていない蒸し暑い営業所のドアを開けた。これから始める孤独な作業の重さが、鉛のように両肩へとのしかかっていた。
静まり返った営業所のフロアで、自分のデスクの周りだけ最低限のデスクライトを灯し、俺はパソコンの液晶画面の前に座った。
冷たいブルーの光が、暗がりのなかで俺の顔を白々と照らし出す。
画面上の管理ツールを開き、張り詰めた緊張感の中で、直近のログイン履歴を過去へと静かに遡っていった。
元々、うちの営業所の顧客情報は、業務の利便性のために社員なら全員が閲覧できるようになっている。問題は、そのデータを「持ち出した明確な痕跡」があるかどうかだ。
だが、この営業所のメインシステムは、元から外部への情報漏洩を徹底的に防ぐため、USBメモリなどの外部メディアには一切接続が出来ない強固なセキュリティ設定になっている。
念のため、接続ログの深部まで徹底的に調べるが、やはりデータを外部ファイルへ移動させた痕跡は一ミリも見当たらなかった。
「念のため、な……」
誰もいないフロアに、俺の一人呟く掠れた声が寂しく響く。
俺はキーボードを叩き、システムへの「ログイン履歴そのもの」が丸ごと削除がされていないかを確認した。
結果、削除されたログの不自然な欠落がどこにもないことを自分の目で確認し、胸の奥から押し寄せる強烈な安堵感に、思わずふぅ、と長い息を吐き出した。
そもそも、この営業所内でログイン履歴を削除出来る特別なシステム権限を持っているのは、トップである高橋と、実務を任されている俺の二人だけだ。
所長室でマスターカードを託されたあの夜、高橋は敢えて俺にこう言ってきた。
『成瀬。このマスターログを使えば、たとえログイン履歴を消したとしても、その「削除を実行した痕跡」そのものを追うことが出来るんだよ』
あいつがわざわざそんなシステムの裏事情を口にした意味が、この冷たい画面を見つめながら、ようやくすとんと腑に落ちた。
もし、ここにログを消去した痕跡が残っていたとしたら、俺がやっていない以上、犯人は自動的に高橋の他にあり得なくなる。
高橋は、「俺のことすら疑え」と冷徹に言ってみせることで、「俺の無実を、お前自身の目で直接見つけ出させ、100%納得した上でこの先の過酷な調査を進めろ」と、あいつなりの絶対的な覚悟を俺に示していたのだ。
高橋……お前はやっぱり、完璧に白だな。
悪友の、そして所長としての底知れない潔白と手回しの良さに、俺は胸の奥を熱い信頼で満たしながら、再びマウスを握る手に力を込めた。
外部ファイルへの接続ログは白。ログイン履歴の削除痕跡も白。
となれば、犯人は一体どうやってあの「プロット番号付きの最重要顧客データ」を外部へと持ち出したというのか。
――カチ、カチ、カチ。 暗闇の中で、俺の叩くマウスのクリック音だけが、犯人を追い詰める足音のように冷酷に響き続けていた。




