幸せなデートと……
次の土曜日。
深夜のオフィスで膨大なログと孤独に向き合い続け、脳が焼き切れそうなほどの強烈な息詰まりを感じていた俺は、どうしても心が気分転換を求めていることに気づいた。
大好きな人の顔を見て、この凝り固まった猜疑心を一度綺麗にリセットしたい。
そう思った俺は、佐伯さんを誘ってドライブに出掛けることにした。
前日の金曜日の夜、いつものお決まりのコースで俺の家に泊まりに来てくれた彼女と、朝の少し冷えた空気の中で車に乗り込む。
カレンダーは九月の終わりに近付いていた。日中の日差しにはまだ夏の名残のような暑さがしがみついているけれど、早朝の風を肌に受けると、真夏のあのじっとりとした不快な暑さと比べれば、幾分か過ごしやすくなったのを感じる。これなら昼間に出かけても、そう暑苦しくはなさそうだ。
アクセルを踏み込み、街の喧騒を抜けて、車で少し離れた郊外の景色のいい公園へとやって来た。
「……あ〜、空気が美味しい。連れ出してくれてありがとう、成瀬さん」
助手席の佐伯さんが、車の窓を少し開けて、九月の爽やかな秋風を浴びながら嬉しそうに微笑んだ。
サイドブレーキを引き、エンジンを切る。静かになった車内で、ふと彼女の横顔を見つめると、職場での完璧な事務員の顔とは違う、俺の家からそのまま地続きで連れてきてしまったような、プライベートの柔らかい大人の色気がふわりと漂っている。
車のドアをパカッと開けると、待ってましたとばかりに夏の終わりを告げる涼しい秋風が、一気に車内へと吹き込んできた。
その肌を撫でる心地よい冷たさを感じただけで、週末のこのドライブに、ここを選んだことが大正解だったのだと改めて確信させられる。
どこか遠くからふんわりと漂ってくる青々とした緑の匂いも鼻腔をくすぐり、脳の奥深くまで圧倒的な爽快感が染み渡っていった。
隣の佐伯さんも、俺と全く同じようにその自然の恵みを感じ取ったらしい。
嬉しそうに車を降りると、お気に入りの白のワンピースの裾を少し揺らしながら、その小さな身体をぐーんと大きく伸ばして「気持ちいい〜……」と、幸せそうに呟いていた。
二人で並んで高台へと続く木製の階段をトントンと登りきると、目の前には、絵の具を塗ったような一面の鮮やかな緑の芝生が広がっていた。
休日をのんびり楽しむ数組の家族連れの笑い声や、楽しそうに尻尾を振って駆けていくペットを連れた人たちの姿が、穏やかに目に映る。
その芝生の広場の向こうには、立派な木造の展望台のような建物が佇んでおり、そこへ登れば、この周囲の豊かな山々を眼下に一望できることが、誰の目にも容易に分かるだろう。
俺は歩きながら、そっと横に並ぶ佐伯さんに向けて、自分の左手を伸ばした。
会社の中では勿論のこと、職場の近くの駅や街中では、隠れて付き合っている手前、手を繋ぐなんてことはあり得ない。
だが、こうやって誰も俺たちのことを知らない、遠く離れた開放感あふれる場所に来たからこそ、心のリミッターが外れて、自然と彼女の温もりに触れたくなる。
佐伯さんは「あ……」と声を漏らし、少し照れたように頬を赤らめながら、自分の小さな右手で、俺の差し出した左手をそっと包み込むようにして優しく握り返してくれた。
指先を通して伝わってくる、ほんの少しひんやりとした、だけど愛おしいこの小さな手を、二度と離すことがないように。自分の守るべきこの平和で温かい日々が、これから先もずっと、当たり前のように続いていけばいいな……と、俺は心の底から強く願った。
繋いだ手のひらの温もりを確かめ合うように、二人の歩調をゆっくりと合わせながら、俺たちは芝生の向こうの展望台へと向かって一歩ずつ歩き始めた。
――パパ! ――ママ!!
のどかな休日の公園にやって来れば、それこそ必ずと言っていいほどどこからか聞こえてくる、親を呼ぶ幼い子供たちの無邪気な声。
もう耳が慣れてしまっているはずなのに、俺はその声の響きを鼓膜に捉えるたび、胸の奥を鋭く抉られたように、どうしても身体がピクッと過剰に反応してしまう。
――いるはずが、ないんだ。
そう。ここに、あの愛しい子がいるはずがない。
頭では120%分かっているのに、情けないことに、俺の目はどうしても反射的に声のした主の方向へと向いてしまう。
「パパ、パパぁ!!」
だが、今回は、絶対に違った。
その声の高さ、愛おしい響き、俺の魂の底に刻み込まれているその「声」は――!!
俺は声の聞こえた方向へと慌てて振り返った。
そこには、今年で六歳になったはずの我が娘――花音が、眩しい太陽の光の中で両腕をいっぱいに広げ、こちらに向かって一目散に走って来ていた。
「花音っ……!!」
俺は叫んでいた。隣にいる佐伯さんの存在も、自分が今どこにいるのかすらも、一瞬ですべての思考が消え飛んだ。
俺の身体は本能のままに、芝生を蹴り立ててその愛しい影に向かって全力で駆け出していた。
花音は満面の笑みを浮かべ、夏の終わりの秋風にピンクのワンピースの裾をひらひらとなびかせながら、一直線に俺の胸へと飛び込んでくる。
夢じゃ、ない……。これは、夢なんかじゃない……!
あの日から、何度この光景を想像したか分からない。何度、夜中に泣きながら夢に見たか分からない。
「もう二度と、あの子の前には現れない」
そう残酷な決意をしたのは、他ならぬ自分自身だったのに。その身を切るような決断を、この一年間、どれほど激しく後悔して自分を呪い続けてきたことか。
離婚して、丸一年。 あの子の姿を写真ですら一度も見ることはしなかった。見てしまえば、自分の覚悟が簡単に揺らいで、すべてを投げ出して会いに行ってしまうのが、どうしようもなく怖かったからだ。
もう自分はあの子の人生に関わらないと強く心に決め、元嫁と、あの子の新しい父親になってくれた、その男の三人で、どうか幸せになってくれることだけを、毎日神に祈るようにして願っていた。
それなのに――。
頭で次の展開を考えることなんて、今の俺には到底出来なかった。
俺は走ってきた勢いのまま、小さな花音の身体を壊れ物を抱きしめるように全力で腕の中に抱きとめ、その温かい背中を、ただ狂ったように強く、強く、抱き締めた。




