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35歳の俺が上司ざまぁしたり、大人って案外楽しいぞと気づいたりする話  作者: VANRI


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会いたかった

 腕の中にいる花音の匂いは、かつて俺が毎日嗅いで知っていたあの頃の甘い匂いとは、どこか違っていた。

 着ているピンクのワンピースも、少し大人っぽく結ばれたその髪型も、俺の知らない、初めて目にするものばかりだ。


 ただ強く抱き締めるだけで、あの子が過ごした一年の月日の重みがダイレクトに伝わってくる。


 大きくなった。身長が伸びたのは勿論のこと、抱き締めた時の身体の確かな重みすらも、俺の記憶にあるものとは全く違っていた。


 視界がぐにゃりと歪み、堰を切ったように涙が溢れてくる。


 ずっと、この愛しい存在をこうしてもう一度だけ抱き締めたかった。この柔らかくて温かい存在に触れることの幸せを、全身の細胞で噛み締めるようにして、ただ涙を流した。



 ――佐伯さんとは、まだ俺が元嫁と籍を入れて結婚していた時から、ずっと同じ職場で一緒に仕事をしていた。だから彼女は、俺に妻がいたことも、この花音という娘がいたことも、すべて最初から知っている。


 だが、実際にこうして花音の生の実物と会うのは、彼女にとってもこれが初めてだろう。


 まだ結婚していた頃。一度だけ、佐伯さんと二人きりで飲みに行った夜がある。

 俺はその時、自分が目の前の彼女に、本気で恋に落ちていることに気づいてしまったのだ。


 しかし、俺には愛する娘がいて、守るべき家庭があった。だからあの日、俺は佐伯さんに対して手を繋ぐことすら、指先一つ触れることすら絶対にしなかった。

 自分のドロドロとした下心を、理性の力で無理矢理に、死ぬ気で我慢して、家庭を裏切らない「理想の父親」であり続けようとしたのだ。


 だが。俺がそれほどの思いで我慢を貫いていた裏で、元嫁は全く別の男と付き合っており、ある日突然、俺に向かって冷酷に離婚を突きつけてきたのだった――。


「……パパ、いたいよぉ〜」


 腕の中で漏らされた花音の弱々しい声に、俺はハッと我に返った。愛おしさのあまり、無意識のうちに腕に力が入りすぎてしまっていたらしい。


 俺は急いで目元の涙を手の甲で拭うと、きつく締め付けていた身体をゆっくりと離した。涙でぼやける視界のまま、目の前の花音の顔をじっと見つめる。


 花音と同じ目の高さになるよう、芝生の上に両膝を深く曲げて視線を合わせ、その小さな頭を優しく撫でた。


 九月の柔らかな日差しをいっぱいに浴びていたあの子の頭は、驚くほど温かく、そして手のひらを滑り落ちていくサラサラの髪の感触は、狂おしいほどに心地よく感じられた。


「本当に……大きく……なったな、花音……」


「うんっ!! かのんね、もう幼稚園じゃないの、小学生になったんだよ!!」

「そうか……小学生か……」


 ランドセルを背負う、この子の姿すら俺は見ることができなかった。


 目の前で弾けるように笑う花音の眩しさに、胸を雑に締め付けられながらも、俺はふと頭をもたげた決定的な疑問を、かすれた声で口にした。


「花音。……今日は、誰とここに来たんだ?」


 六歳の子供が、ひとりでこんなに遠く離れた郊外の公園までやって来られるはずがない。


 誰かが連れてきている。……となると、必然的に、あの元嫁の姿がこの芝生のどこかにあるはずで――。


「パパと!!」


 満面の笑みで返されたその三文字を聞いた瞬間、俺の胸の奥は、今度こそ完全にドス黒い力で握り潰されたかと思うほどの強烈な激痛に襲われた。


 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、「俺とふたりで来た」という意味だと脳が錯覚したのだ。だけど、違う。花音にとっての『パパ』という特別な居場所は、もう俺のものではなくなっていた。


 俺は痛む胸を押さえるようにして、花音の視線の先――少し離れた芝生の上へと、弾かれたように顔を向けた。


 そこに、元嫁の現在の夫である、今井の姿があった。

 脳裏に、離婚が成立した直後のあの日の記憶が鮮烈に蘇る。

 今井は元嫁に何も言わず、わざわざ俺に会ったのだ。そして、俺の目を真っ直ぐに見据えて『僕は、あなたに負けないくらいの、最高のパパになります!』と涙ながらに宣言した。

 

 あいつのその真っ直ぐな誠実さに触れたからこそ、俺は『いつでも花音に会いに来ていいですよ』と言ってくれた今井の、あまりにも優しすぎる提案を、あえて断ったのだ。


 新しい彼らの家庭の邪魔だけは絶対にすまい。


 そう固く心に誓って、写真すら見ずに今日まで血を吐く思いで生きてきたというのに……。


 今井は、緑の芝生の上で、まるで地面に足が張り付いてしまったかのように呆然と立ち尽くしていた。

 その場から一歩も動けずにいるが、あいつの血走った目だけは、必死に俺と花音の姿を捉え、1秒たりともそこから離そうとしない。


 今井のその表情には、予期せぬ本物の父親との遭遇に対する激しい「焦り」と、そして何より――自分がこの一年間、必死に花音と築き上げてきた『パパ』という脆い関係性が、本物の父親の登場によって一瞬で崩壊してしまうのではないかという、剥き出しの「怯え」が、生々しいほどに浮かび上がっていた。




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