自分の居場所
「可愛いですね」
俺の耳に不意に背後から、佐伯さんのどこまでも穏やかで優しい声が届いた。
振り返るよりも早く、彼女の白のワンピースの裾がふわりと芝生の上に広がる。
佐伯さんは俺のすぐ横へと寄り添うようにして、花音と同じ目線に合わせるように、その場にそっと座り込んでくれたのだ。
見知らぬ大人の女性の登場に、花音はピンと小さな背筋を伸ばすと、学校で習ったばかりのようなお行儀の良さで、丁寧にお辞儀をしてみせた。
「いまい、かのんです! よろしくお願いします!」
娘が手に入れてしまった、新しい苗字。
花音の鈴を転がすような可愛らしい声の響きに、胸の奥を太い杭で貫かれたような、今までの人生でかつて経験したことがないほどの凄まじい苦しみが押し寄せてくる。
そうだ、もう『成瀬』ではなくなったのだ。
俺は今、自分では制御することすら出来ないほど、酷く惨めな顔になってしまっているのではないだろうか。
だが、佐伯さんはそんな俺の限界の様子に、敢えてなのか一切目もくれず、ただまっすぐに花音へと優しい、温かい微笑みを向けた。
「佐伯みのりです。こちらこそ、よろしくお願いしますね、花音ちゃん」
「みのりお姉ちゃん? ……パパのおともだち?」
花音は首を少し傾げ、その曇りのない真っ直ぐな目で、佐伯さんへと無邪気な疑問を投げかける。
「え……? ああ、うん、そうだよ。パパのおともだち」
佐伯さんは一瞬だけ、何と答えていいか分からない様子で視線を揺らした。だが、すぐにいつもの完璧な笑顔を作って、花音の言葉に優しく返した。
「じゃあ、みのりお姉ちゃんは、パパとけっこんするの?」
「え……!?」
「えぇ!?」
あまりにも突然放たれた、純粋で、そして今の俺たちにとって最もナイーブなその質問に、俺と佐伯さんの声が同時にひっくり返った。本当に、心臓を素手で生々しくえぐり取られたかと思ったぐらいだ。
だが、花音は俺たちのそんな大慌てな顔なんて少しも気にする様子もなく、楽しそうに言葉を続ける。
「だってね、今のパパ……あ、あっちにいる人」
花音はピンクのワンピースの袖から小さな人差し指を伸ばして、少し離れた場所で血の気の引いた顔をして直立不動で佇んでいる、今井の方を真っ直ぐに指差した。
「あっちのパパとね、一番最初にはじめてお家で会った時、ママが『おともだちだよ』って教えてくれたの。
だから、大人の男の人と女の人がおともだちになったら、みんなそのあとけっこんするのかなって思ったの!」
無邪気に笑う我が子の、あまりにも正しくて、あまりにも残酷な子供のロジック。
元妻が、自分と離婚する前から今井のことを「お友達」として娘に紹介していたという、過去の理不尽な真実の片鱗。
俺の横で、花音の指の先にある今井の姿を見つめた佐伯さんの身体が、ほんの一瞬だけ、悲しみと怒りを堪えるように小さく強張るのが分かった。
夏の終わりの公園、楽しげな周囲の家族連れの笑い声が、俺たちの座る芝生の上だけを、どこまでも冷酷に通り過ぎていった。
「花音ちゃんには、パパが二人もいるんだね」
隣に座る佐伯さんが、手元を優しく包み込みながら、ふと花音に向かって穏やかな声をかけた。
それは、元妻の過去に対する嫌味やあてつけなんかでは決してなかった。今、自分でも制御できないほど惨めな顔をして傷ついている俺に対して、『成瀬さんも、ちゃんと花音ちゃんの大切なパパですよ』と、そっと背中を支えて肯定してくれるような、彼女の魂からの深い慈愛の響きのように思えた。
その言葉を聞いた瞬間、花音の顔がパッと、暗雲を吹き飛ばすひまわりのように明るく弾けた。
「そうなの!! みんなどのお友達も普通は一人しかパパがいないのに、花音には二人もパパがいるんだよ! すごいでしょ!!」
花音は小さな両手を腰に当て、これ以上ないほど誇らしげに佐伯さんに向かって、くいっと可愛らしく胸を張ってみせている。
その眩しすぎる姿を間近で見つめながら、俺は胸の奥のドス黒い痛みが、みるみるうちに温かい涙へと変わっていくのを感じていた。
素直に、この子は本当に凄いな、と心から思った。
親の勝手な都合で離婚して、間を置かずにすぐ別の男と再婚するなんて、世間の古い大人たちから見れば眉をひそめて良く思わない奴だって大勢いるだろう。
自分の苗字が変わってしまったことで、周囲の友達から何か言われたり、傷つくような嫌な思いをしていないだろうかと、俺はあの日からそれだけをずっと、独りで心配し続けていたのだ。
だけど、この小さな子は、俺の想像なんかよりも遥かに強かった。
自分に起きた大人の理不尽な環境の変化を、あの子なりの真っ直ぐで純粋な心で受け止め、傷つくどころか、むしろ「パパが二人もいてラッキー!」と、最高に良い方に解釈して笑って前を向いて生きていたのだ。
もう二度と会わないと極端な決意をして、勝手に独りで悲劇の主人公になって、仮面を被って自分の殻に閉じこもっていた自分自身が、なんだか無性に小さく思えてくる。
自分の腕から離れて、秋の青空の下で誇らしげに笑っているこの小さく可愛い娘の背中が、今の俺には、世界中のどんな大人よりも、何倍も大きく立派に目に映った。
「……花音は、世界一すごくて、世界一カッコいい、自慢の娘だよ」
俺はもう一度、今度は涙を完全に拭い去った本物の父親の笑顔で、あの子の日に当たって温かいサラサラの髪を、愛おしそうに何度も撫で回した。




