繋がれる左手
「あっ!! 大変っ!!」
俺に頭をされるがまま、嬉しそうに撫で回されていた花音が、突然思い出したように小さな声を上げた。
ピンクのワンピースを翻し、あわてて小さな身体をピンと跳ね上がらせる。
「花音、もう行かなくちゃ!!」
「ん? どこにそんなに急いで行かないといけないの?」
隣に座る佐伯さんが、慌てる花音を落ち着かせるように、どこまでも優しい声で問いかけた。
「ママをね、病院に迎えに行かなくちゃいけないの!!」
「え……?」
突然放たれた、しかも全く思ってもみなかった不穏な言葉に、俺の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
病院――その二文字が持つ不吉な予感に、俺は居ても立ってもいられなくなり、花音の両肩にそっと手を置き、真剣な瞳でまっすぐに語りかけた。
「花音……ママは、どこか身体が悪いのか……?
何かの病気なのか……?」
俺の必死すぎる表情が可笑しかったのだろう。
花音はいつものカラッとしたひまわりのような笑顔を弾けさせながら、無邪気に答えた。
「あはは! ちがうよパパ! びょうきなんかじゃないよ、けんしんだよ!!」
「けんしん……? 健診……?」
俺が困惑して言葉を詰まらせていると、花音は小さな人差し指を自分の小さなお腹に当てて、世界で一番すごい大ニュースを俺たちに発表するように、声を一段と弾ませた。
「あのね! ママのおなかに、赤ちゃんがいるの!!
その赤ちゃんがちゃんと大きくなってるかどうか、病院の先生にみてもらってるの!!」
「赤ちゃん……?」
九月の爽やかな秋風が、一瞬にして凍りついたように冷たく感じられた。
言葉の意味が、脳の細胞にうまく染み込んでいかない。
「うん!! しかもね、お医者さんが男の子だって教えてくれたの!! かのんね、もうすぐお姉ちゃんになるんだよ!! すごいでしょ!!」
パパが二人いると胸を張った時よりも、何倍も、何十倍も誇らしげにキラキラと輝く、我が子の無邪気な笑顔。
あの子が新しい家族の中で、今井のことを本物の父親として受け入れ、これから生まれてくる新しい命を心から愛そうとしている。
その花音の輝くような笑顔が、今の俺にはあまりにも眩しすぎて――、眩しすぎるがゆえに、胸の奥が引き裂かれるように激しく苦しくなる。
我が子の、これ以上ない純粋な喜びを、どうして俺は実の父親なのに素直に喜んであげられないのだろう。自分の心の狭さと、もうあの子の人生の主役にはなれないのだという冷たい現実の重さに、目眩がするほどの絶望が押し寄せてきた。
「じゃあねパパ! もう行かなくちゃ! パパ、またね!!」
花音はそれだけを元気いっぱいに言い残すと、ピンクのワンピースの裾をひらひらとなびかせながら、すぐに今井の方へとパタパタと小走りで駆け出していった。
遠くの芝生の上で、今井が戻ってきた花音の小さな身体を、愛おしそうに優しく包み込むようにして抱きかかえるのが見える。
そして、今井は花音を腕に抱いたまま、遠くからこちらで見守っている俺に向かって、一度だけ、深々と、静かに頭を下げた。
言葉はなくとも、あいつのその綺麗な直角の礼だけで、父親としての男のケジメと、俺への絶大なリスペクトが痛いほど伝わってきた。
今井はそのまま花音を地面に降ろして小さな手を繋ぐと、俺たちに背を向けて、新しい命の待つ場所へと一歩ずつ歩き出した。
俺は遠ざかっていく二人の、しっかりと結ばれた大きな手と小さな手から、どうしても最後まで目を離すことが出来なかった。
俺はゆっくりと立ち上がり、不意に、自分の虚しく空いた左手の手のひらを見つめた。
あの子が走ってきて、その勢いのまま強く抱きしめることしか頭になかった。
――久しぶりに、ちゃんと手を繋げばよかったな……
もう二度と触れることのできないかもしれない、我が子の愛おしい手のひらの、かけがえのないあの温もり。
俺がそんな消えない未練を抱えながら自分の左手を見つめていた、その時だった。
視界の端から、白く細い指先がそっと滑り込んできて、俺の寂しく震えていた左手の隙間を、すっと埋めるようにして完璧に重なり合った。
ハッとして我に返り、彼女の方へと目をやる。
そこには、俺の胸の奥の叫びをすべて分かっているかのような、深く、どこまでも温かい眼差しで俺の顔を覗き込んでいる佐伯さんの姿があった。
お気に入りの白のワンピースが、九月の秋の涼しい風に吹かれて、優しく、綺麗に揺れている。
「……さ、成瀬さん。お腹も空きましたし、どこかに美味しいお昼ご飯でも食べにいきましょうか」
過去の理不尽な傷跡も、娘を奪われた大人の孤独も、すべてをその細い手首で引っ張り上げてくれるような、恋人としての最高の微笑み。
「ああ……。そうだな。行こう」
俺は佐伯さんの小さな手を、今度は自分の方からきゅっと力強く握り返した。指先から、彼女の確かな体温が俺の心臓の奥へと伝わり、凍りついていた血がゆっくりと巡り出していくのが分かった。
俺たちはもう一度、これからの未来を共に歩む歩調をしっかりと合わせながら、芝生の上をゆっくりと歩き始めた。
会社を出れば、俺にはこんなにも愛おしくて、俺の全てを肯定して支えてくれる、最高の女性がすぐ隣にいてくれる。
雲一つない、透き通った秋の太陽の光が、緑の芝生の上を、どこまでも真っ直ぐに並んで歩いていく、俺たち二人の影を、いつまでも温かく、眩しく照らし続けていた。




