犯人は、誰?
翌日の、日曜日。
昨日、あの爽やかな秋空の下で佐伯さんと過ごしたことで、二人の間の心の距離がさらに一歩深く縮まったような確かな手応えがあった。
その愛おしい手のひらの温もりがまだ左手に残っているようで、誰もいない静かなオフィスへ向かう俺の足取りは、いつになく軽くなっていた。
このところ、週末になれば毎週のように誰もいないフロアへ潜り込む「日曜出勤」を繰り返しているせいで、俺の脳の感覚は、もうこの異常な孤独のルーティンこそが通常の仕事スタイルであるかのように錯覚し始めていた。
しんと冷え切った、自分の歩く革靴の足音しか聞こえない無機質なビルの廊下を歩きながら、俺はふと、都合の良い仮説にすがりつくように考えを巡らせた。
――待てよ。犯人が、そもそもこの営業所の『人間』ではない可能性はないのか?
例えば、メインシステムが何らかの悪質なコンピュータウイルスに感染していたとしたらどうだ。外部メディアの接続ログを残さずに、自動的にバックグラウンドで情報漏洩を繰り返すウイルスなんて、現代のIT社会ならよくあることじゃないか。
そのウイルスを裏で仕掛けた正体不明のハッカーが、手に入れた顧客データを安田の今の会社に高く売り払って――。
そうだ、それが一番いい。ウイルスが犯人であってくれ……
誰の顔を思い浮かべても、その裏の顔を勘ぐってしまう。昨日まで笑顔で缶コーヒーを一緒に飲んでいた仲間を、明日もまたプロファイリングの網にかけなければならない。
もう、そんな風に周りの人間を底なしに疑い続ける作業に、俺の心はボロボロに疲れ果てていたのだ。
人間以外の「機械のバグ」が原因であってほしいと願うのは、俺のなけなしの防衛本能だった。
だが、エレベーターの前に立ち、冷たいボタンを押した瞬間、昨日、手を繋いで芝生を歩いた佐伯さんの白のワンピース姿が、鮮烈に脳裏をよぎった。
高橋から言われたあの冷酷な命令が、呪いのように耳の奥で蘇る。
『たとえ恋人であっても、友人であっても。その覚悟がないと犯人は見つけることが出来ない』
エレベーターが静かに到着し、鏡張りの扉が開く。
もし。本当に万が一、俺の最愛の恋人である佐伯さんが、このスパイ行為の犯人だったとしたら、俺は一体どうするつもりなんだろうか。
ガタゴトと、上昇を始めた密室のなかで、俺は自分の胸の底にある、重く、そして絶対に揺らぐことのない一つの鉄の結論に達していた。
……どうもしない。もし佐伯さんが犯人だったとしても、俺のこの愛する気持ちだけは、何があっても変わらないだろう。
例え世界を敵に回すような大罪人であっても、俺はあの細い指先をもう二度と離さない。
そんな、あまりにも純粋で狂気じみた愛の覚悟をポケットの中のマスターカードに刻みつけながら、俺は冷房の入っていない、薄暗い営業所のフロアへと足を踏み入れた。
俺は暗がりのなかで、もう一度執念深くパソコンの画面にかぶり付き、システムへのログイン履歴を隅から隅まで精査し直した。
……やはり、パソコンから外部メディアへとデータを直接移動させた形跡はどこにもない。
となると、一体どうやってあのプロット番号付きの最重要顧客データを外へ連れ出したというのか。
他に、この厳重なセキュリティを破ってデータを動かす方法なんて……。
まさか、紙として普通に『印刷』したのか?
いや、業務で必要な資料なら、社員の誰もが日常的に印刷ボタンを押している。
そんな大量の印刷ログの海から、犯人の不正だけを見つけ出すなんて、砂漠の中から一本の針を探すようなものだ。
俺は思考の迷宮に嵌まり込み、デスクライトの下でじっと考え込んだ。
無意識に右手のひらで強く握りしめたままになっていた、自販機の缶コーヒー。その表面にびっしりと浮き出た冷たい結露の滴が、音もなく指の隙間を伝って、冷たくリノリウムの床へと滴り落ちていく。
……待てよ。印刷した紙の束を、そのままライバル他社のオフィスに手渡しで持ち込んだのか……?
いや、そんな持ち運びの手間がかかる上に、紛失して一発で足がつくようなリスクの硬いことを、この狡猾な犯人がやるだろうか……
違う。もっと手軽で、確実に、なおかつパソコン側の『流出ログ』に一切足跡を残さない、完璧なデータの連れ出し方法が――このオフィスの真ん中に、確実に存在する。
ハッと息を呑んだ瞬間、俺の脳細胞のなかのすべてのパズルが、一つの恐ろしい答えに向かってカチリと噛み合わさった。
――スキャンだ。紙で印刷した顧客リストを、複合機の原稿台にセットして『スキャン』すれば……!
今の最新のオフィス複合機は、スキャンしたPDFデータを、ネットワーク経由で自分の個人のパソコンや、あるいは目の前のスマートフォンへ直接ワイヤレスで転送する機能が備わっている。
それなら、社内システムの厳しい『外部ファイル接続制限』に引っかかることなく、最重要データを綺麗なデジタルファイルのまま、完璧に外へ持ち出すことができてしまうのだ。
「となると、調べるべきはパソコンのログイン履歴だけじゃない……」
俺の目は、オフィスの暗がりのなかに佇む、あの巨大な複合機のシルエットを真っ直ぐに射抜いていた。
複合機自体のハードディスクに残されている『スキャン履歴』。それらをパソコンのログインログと完全に突き合わせれば、データを外へ移動させた裏切り者の犯行の瞬間を、確実に特定することができる。
俺は、いつの間にかもう完全にぬるくなってしまった缶コーヒーを、乾ききった喉の奥へと一気に流し込んだ。
液晶画面のブルーの光に照らされながら、トクトクと耳の奥で激しく速まる鼓動を、冷徹なプロの理性で無理やり抑えつける。
マウスを握る指先が、わずかに震えていた。
これからあの複合機の暗号ログの扉を開けば、そこには、俺が絶対に信じたくない『誰か』の正体が、冷酷に暴き出されることになる。
「あ~、バレちゃいましたか」
静まり返ったオフィスに背後から突然響いたその低く乾いた声に、俺は全身の血が逆流するような衝撃とともにガバッと勢いよく立ち上がり、振り返った。
あまりの凄まじい勢いで立ち上がったせいで、それまで座っていたキャスター付きのオフィスチェアが、静寂に包まれたフロアにガシャーンと大きな音を立てて激しく転がった。
その大きな破壊音すら、今の俺の耳には遠くの出来事のようにしか聞こえない。
暗がりのなか、パソコンの冷たいブルーの液晶画面に冷酷に映し出されていた、すべての答え。
深夜のログイン履歴。そして、最重要顧客リストの文字を読み取ってAIが自動保存していた、複合機の暗号化スキャン画像ログ。
それらすべての点と線が交わった交差点から、逃げ場のない確定事項として導き出された、ICカードIDと名前。
その画面に刻まれた文字と全く同じ人物が、すぐ後ろに立っていた。




