誰のためにどう動くのか
救護室の簡易ベッドにあさひを横たわらせ、ようやく一息ついた。佐伯さんが「私がそばについているから」と言うので、邪魔にならないよう、俺はとりあえず一度廊下へ出ることにした。
防音の効いた重いドアを閉めて通路に出ると、壁に背を預けて待っていた高橋が、これまでに見たこともないような複雑で、酷く強張った顔をして近寄ってきた。
「成瀬……。あさひちゃんは? 大丈夫なのか?」
「ああ……。さっき応急処置の薬を入れたから、少し横になって休めば大丈夫だと思うよ」
俺たちは近くのオープンな休憩スペースにあるベンチへと腰を下ろした。少しでも落ち着くために自販機で買ったホットのカップコーヒーを飲みながら、救護室の二人が出てくるのを待つことにする。
土曜日の昼下がりということもあり、モール内はそれなりに買い物客の家族連れで多くなってきた。
俺たちが座っている場所はちょうどゲームセンターの入り口の近くということもあり、絶え間なく鳴り響く派手な電子音楽やゲームの爆音、それにかき消されまいとする人々の騒々しい話し声が容赦なく鼓膜を叩く。
そんな喧騒の中、目の前をキャラクターもののポップコーンバケットを持った小さな子供が楽しげに走って行き、香ばしいバターの匂いが一瞬だけ俺たちの鼻を掠めていった。
周囲がこれだけ騒がしいというのに、俺と高橋の座るベンチの周りだけは、まるで真空地帯のように冷たく静まり返っている。
高橋は手元にある紙コップのコーヒーを一口だけ、喉を湿らせるように静かに飲むと、その茶色い液体を見つめたまま、低く、重い声で話し出した。
「なあ、成瀬……」
ゆっくりと、高橋の視線が俺の瞳へと移動し、鋭い視線とぶつかる。
「あれは一体、どういうことだ?」
あいつの声には、怒りではなく、ただ純粋な困惑と違和感が混ざり合っていた。
「ああ……身体のことは俺じゃなく、あさひ本人に……」
「違う」
高橋が俺の話を遮るように言葉を被せた。
「あさひちゃんが倒れた時、まるで最初からこうなるって分かってたみたいに動いてただろ?
バッグのどこにあの薬が入ってるか、知ってるような動きで、迷わずに取り出していた。
なんであんなスムーズに対処ができたんだよ」
高橋の追及は、ぐうの音も出ないほどに正論だった。
親友である高橋には絶対に嘘をつきたくない。
だからといって、あさひと交わした『みのりには内緒』という約束を、俺の都合で破るわけにもいかないのだ。
ましてや、姉である佐伯さんを置き去りにして、高橋が先に彼女の病気の真実を知るというのは、どう考えても筋が違いすぎる。
俺がなかなか言おうとしないので、高橋は何かを察したようだった。そして、落ち着いたトーンで話し出した。
「……俺は、まだいい。あさひちゃんと知り合って間もないしな。
だけど……佐伯さんも何も知らなかったようで、かなり動揺してるように見えたぞ?
そっちは、ちゃんとフォローしないといけないんじゃないか……?」
「……ああ、わかってる……」
いつかは来ると思ってた、ちゃんと向き合う時が来てしまったのだろう。思わず深呼吸をしてしまう。
高橋は俺を横目に見ながら、自分に言い聞かせるように、深く息を吐きながらポツリとこぼした。
「俺は……あんなの見せつけられてどうしたらいいんだよ……」
俺は、熱いカップコーヒーを握る指先にじんわりとした熱を感じながら、これからのことを一人考え始めていた。
ガチャリ、と静かに救護室の重い防音ドアが開いた。
そこには、心配そうに寄り添う佐伯さんの隣に、しっかりと自分の力で地面を踏みしめて歩いてくる、あさひちゃんの姿があった。
顔色はさっきよりは幾分かマシになっている。もう指先の不自然な震えも、焦点の合わない眩暈の様子もなさそうで、俺は心の底から大きく胸をなで下ろした。
「あさひちゃん……っ」
高橋は俺への追及を完全に放り出し、俺よりも先にベンチから勢いよく立ち上がると、二人のもとへ歩き出していた。あさひは高橋の目の前まで来ると、しおらしく小さく頭を下げた。
「高橋さん……さっきはいきなり驚かせてしまって、本当にすみませんでした……」
「いや、俺のことは全然いいんだ……。
それより、本当に、もう身体は大丈夫?」
高橋の視線があさひの顔を、そして彼女の細い肩のあたりを忙しなく彷徨う。
あいつは今にも「大丈夫か」とその華奢な身体を抱きしめて安心したいのだろう、あさひに向けて伸ばしかけた大きな両手を――しかし、途中で何かを必死に堪えるように、ズボンのポケットの横でぎゅっと力強く拳を握りしめて抑え込んでいた。
まだ付き合ってもいない、自分の素性すらろくに明かしていない男が、弱っている彼女の領域に無遠慮に踏み込んでいいわけがない。
そんな高橋なりの、あさひを心から大切に想うがゆえの『大人の理性のブレーキ』だった。
「はい。成瀬さんがすぐに対応してくれたおかげで、もうすっかり大丈夫です」
あさひは、高橋のその不器用な優しさに気づいたのだろう。クッションの沼に溺れていた時と同じような、少し恥ずかしそうな、だけど心底嬉しそうな極上の笑顔を浮かべて、高橋の顔を真っ直ぐに見上げた。
「……そっか。なら、良かった」
そのひまわりのような笑顔を向けられてしまったら、もう高橋には、それ以上強張った顔を維持する術など残されていなかった。
あいつの顔から、さっきまで俺に向けていた違和感は綺麗さっぱり消え去り、ただただ愛しい人を見つめるだけの、優しく緩みきった表情へと戻っていく。
俺は手元に残ったぬるいカップコーヒーを一気に飲み干し、まだ何も知らない、だけど少しだけ怪訝そうな顔でこちらを見つめている佐伯さんの視線に、どうにか笑顔を返し直した。




