支えたいのは誰
一時間後。佐伯さんと人混みの中でささやかなデート気分を味わい、先ほどの合流場所へと戻ってきた。
すると、そこにはさっきまでのガチガチな面影はどこへやら、距離もぐっと近くなり、お互いに笑顔で会話している高橋とあさひの姿が目に映った。
今はちゃんと照れずに目も合わせることができているし、ピンと不自然に伸びていた背筋すら緩んで、居心地良さそうに見える。
気になる者同士の不器用な二人なのだ。少し背中を押してきっかけを作ってやればどうにでもなる、という俺たちの思惑は見事に的中した。
俺は隣を歩く佐伯さんと顔を合わせ、「やったな」と無言で優しく微笑み合ってしまう。
さて、これからどうしようか。夜の居酒屋に行くにはまだ少し時間が早いけれど――。
――その時、遠目から二人の様子を見ていた俺の脳細胞が、強烈な『何か』を察知して警報を鳴らした。
何か、おかしい。あさひの態度? 雰囲気?
……いや、身体の動きだ。
俺は考えるよりも先に、佐伯さんの隣を弾かれたように全力で走り出していた。
「成瀬さんっ!?」
デートの余韻を切り裂くような、驚きに満ちた佐伯さんの高い声が後ろから追いかけてくる。
だが、今の俺にはそれを振り返る余裕すらなかった。
高橋が焦って手を伸ばすのと、俺が現場に滑り込むのがほぼ同時だった。あさひの身体がぐらりと不自然に横へ傾き、崩れ落ちそうになったその華奢な肩を、俺は間一髪のところで自分の腕の中に抱きとめた。
「おい、大丈夫か!? あさひ!」
「あ……、これ…は……」
あさひが消え入りそうな声を出す。
一瞬遅れて、後ろから必死に走って来た佐伯さんの、肩で息をする荒い呼吸の音がすぐ上から聞こえた。
「また……迷走神経反射、かな……っ。あさひ、昔からたまに立ちくらみを……」
――いや、違う。これはそんな生易しいものじゃない。発作だ。
腕の中に伝わってくる、尋常ではない小刻みな指先の震え。焦点が合わず、虚空を彷徨っている朦朧とした瞳。冷や汗、急激な目眩――俺の脳内にある最悪の病名(低血糖発作)がフラッシュバックする。
俺はすぐ近くにいた女性店員に向かって、周囲の目を気にする余裕もなく叫んだ。
「すみません!! どこか、今すぐこの子が横になれる場所はありませんか!?」
「あ! はい! ちょっと、すぐ確認してきます、お待ちください!」
事態の異常さを察した店員が、バタバタとインカムに叫びながらバックヤードへ走っていく。
「あさひ! 持ってるか!? 薬か何か、いつも飲んでるやつ!」
「うん……バッグの、中に……」
俺はあさひの背中を近くの壁にそっと預けさせると、床に滑り落ちていた彼女のポシェットを急いで引き寄せた。あの時、俺の前で注射器を取り出した、あの小さなカバンだ。それなら、絶対にこの中にあるはずだ。
ジッパーを引くと、案の定、応急処置用の小さな固形ブドウ糖の小袋が入っていた。それらを引っ掴むようにして取り出し、あさひちゃんの目の前に突きつける。
彼女が弱々しくコクンと頷いたのを確認し、俺は手早く封をちぎると、その白い固形物をあさひちゃんの乾いた唇の隙間へと、滑り込ませるようにして入れてやった。
そこへ、息を切らした店員が慌ただしく戻ってくる。
「こちらにどうぞ! 救護室へご案内します!!」
店内の通路には、何事かと遠巻きにこちらを観察している客たちの視線が集まりつつあった。
だが、誰も厄介ごとに巻き込まれたくないのか、俺たちのすぐ近くにまで助けに入ってくる人はいない。
ただの冷ややかな『背景』だ。
あさひの軽い身体を横抱きに抱え上げ、念のために彼女の荷物も片手で掴み、俺は店員の後に続いて足早に移動を始めた。
すぐ斜め後ろから、佐伯さんの困惑しきった声が追ってくる。
「成瀬さん……っ!? たかが立ちくらみなのに、そんな大げさに抱きかかえるなんて……」
「後でちゃんと説明する!」
思わず、彼女の言葉をピシャリと遮るような、厳しい言い方になってしまった。
だが、今の俺には、恋人の機嫌を伺ったり傷つけないように言葉を選んだりしている暇など一秒も残されていなかった。
腕の中にある、この消え入りそうな命のことしか頭にない。
隣で見たこともないほど顔面蒼白になって立ち尽くしていた高橋が、一体どんな顔をして俺たちを見送っていたか――それすら、振り返って確かめる余裕はなかった。
救護室へと続く薄暗い廊下を、足早に、だけど振動を与えないように慎重に歩いていく。
すると、俺の胸に預けられた腕の中で、あさひちゃんが薬のおかげでほんの少しだけ意識を取り戻したのか、力なく、消え入りそうな声で呟いた。
「なんで……成瀬、発作の対処法、知って……っ……」
必死に走ったせいで、俺の心臓の拍動は自分でもうるさいほど速いし、いくら小柄で軽いとはいえ、女性一人を抱えて歩けば呼吸だってどうしても荒くなる。
だけど、それをあいつに悟られて余計な不安を与えないよう、俺はできるだけ優しく、いつもの余裕のある先輩としての微笑みをその顔に浮かべてみせた。
「この前、お前にその病気のことを打ち明けられたあの日から、ずっと調べてたんだよ。
どんなことが起こり得るのか、その時、俺がどう対処したらいいのかってな。
……せっかく俺を頼って、大切な秘密を話してくれたんだから。男として、その信頼にはきっちり応えたいだろ?」
俺の言葉を聞いたあさひは、軽い笑みをフッとその唇に浮かべると、照れくさそうに視線を斜め下へと逸らした。
「相変わらず、さすがだね……。やっぱあたしが、見込んだだけのことはあるわ……」
そうポツリと言うと、安心したように静かに瞼を閉じ、俺の胸に完全にその身を委ねた。




