思わぬ出逢い
金曜の夜、高橋に「二人でバーで飲もう」と誘われた。
だいたい俺たちが飲みに行く時は、決まってガヤガヤとした大衆居酒屋なので、あいつからこんなお洒落な場所に誘われるのは極めて珍しいことと言えた。
仕事を終わらせ、二人で少し背筋を伸ばして夜の街を歩く。秋の気配を帯び始めた夜風はだいぶ涼しくなってきた。今までは暑くて脱ぎたくてたまらなかったビジネス背広が、今は肌を包むのにちょうどよく心地よく感じられる。
店内に足を踏み入れると、金曜ということもあって、ほとんどの席が会社員やカップルで埋まっている状態だった。
カウンターはすでに満席だったので、俺たちはフロアの端の方にぽつんと空いていた小さなテーブル席へ、向かい合う形で腰を下ろした。
頼んだカクテルと、軽めのつまみがテーブルに届き、まずはグラスを合わせて軽く乾杯する。
カクテルを一口飲みながら、男の胃袋的にはこれじゃ全然がっつり系を食べられそうにないし、こういうお洒落なつまみは男同士だと食べにくい。2軒目は結局いつもの居酒屋で仕切り直しで飯かな……などと、頭の中でどうでもいい雑念をよぎらせていた。
高橋はカクテルグラスを傾けて少し喉を潤すと、そのグラスの底を見つめたまま、ぽつりと静かに言った。
「俺、別れたんだよね……」
「ああ、そっか……」
先日、高橋の不倫相手である瀬戸さん本人から直接「別れた」と聞いていた。だが、もちろんそんな裏事情をこの場で口にするわけにはいかない。
しかも、瀬戸さんはまだ高橋に未練がある素振りを見せていた。高橋の出方次第では、下手すればまたあの不倫劇が再燃しかねない。
こいつの心が、とろ火にまで弱まっている今のうちに、親友としてしっかり火消しに努めなくてはいけないと思った。
「まあ、いいんじゃないか? 胸を張って周りに紹介出来る相手でもなかったわけだしさ……」
「まあな……。でもさ、やっぱり、それなりに喪失感はあるんだよな……」
高橋は言い終わると、胸の奥に溜まっていたものをすべて吐き出すように、深い、深い溜め息をついた。
いつも完璧でクールなこいつが、これほど分かりやすく落ち込んでいる。自分のこんな弱り切った表情を他人に読み取られたくなくて、あえて居酒屋ではなく、この薄暗い間接照明のバーを選んだのだろうと、あいつの男としてのプライドが察せられた。
「そのうち、きっと良い出会いがあるさ。なぁ?」
我ながら気休めにしか聞こえないだろうとは思ったが、今の俺には、これ以上にこの場に相応しい言葉を知らなかった。今の俺にできる、精一杯の慰めの言葉だった。
「ああ……そうだといいな……」
店内の暗めの間接照明に照らされた高橋は、傷ついて悲しそうな、だが同時に、重荷を下ろして少しホッとしたような、複雑な表情を浮かべていた。
よし、ここは一つ、親友の出番だな。
俺は心の中で小さく腕をまくった。高橋がどれほど仕事ができて、顔が良くて、男としていい奴であるかをここで熱弁して、あいつの折れた自信を叩き直してやろうではないか!
お世辞でもなんでもない、俺が普段から本当に思っていることなのだから、高橋の心にも真っ直ぐに届くはずだ。
「高橋さ……」
熱い友情の言葉を言いかけた、まさにその時だった。
にぎやかな他人の話し声と、店内に流れる大きめのジャズのBGMが混ざり合って、突如として耳に飛び込んできた。
「成瀬〜!」
金曜の夜のバーは客が多い。フロア中を飛び交う騒がしい声に遮られて、その声がどこから聞こえるのか、すぐには特定出来なかった。
だが、軽く周囲を見回すと、テーブルの隙間を縫って、まっすぐにこちらへと近づいてくる人影があるのが分かった。
街灯のネオンにも負けない、綺麗に化粧された華やかな顔。
さらさらとなびく金髪のボブヘア。
動くたびに耳元でゆらゆらと妖しく揺れるピアス。
そして、まるでファッション誌のモデルのように、上質なパンツスーツをビシッと着こなしている、完璧なスタイルの女性――。
「あさひ!?」
驚愕のあまり、俺の声が裏返った。向かい側で、高橋が不思議そうに目を丸くして振り返る。
「成瀬! 久しぶり! 元気そうだな〜!」
あさひは、俺たちのテーブルの前に堂々とやって来ると、間接照明の下で目をキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべた。
「ああ……あのプレゼン以来だな。てか、お前、その男っぽい話し方、外ではなんとかなんねえのかよ〜。せっかくそんな綺麗な格好してるのにもったいない……」
俺は椅子に深く腰掛けたまま、呆れたように、だけど親しみの籠もったトーンで答えた。
ふと隣を見ると、高橋がまるで雷に打たれたかのような驚愕の表情で、あさひの姿を文字通り凝視したまま完全にフリーズしていた。
うん、わかる、わかるよ高橋。目立つんだよな、この金髪にタイトスーツってスタイル。
しかも、黙って立っていれば誰もが振り返るような超一級の美人さんだからな。
このモデルみたいな見た目から放たれる男勝りな口調に、やっぱり度肝を抜かれるよな〜。
心の中で「ようこそ、あさひワールドへ」と悪友に同情しかけた。
高橋は、俺とはまったく目を合わせようとせず、あさひに視線を釘付けにしたまま、どこか上擦った声で聞いてきた。
「え……と、成瀬。こちらの、綺麗な方は……どなた、ですか?」
「ああ。こないだのプレゼンで主催側にいた、あそこの会社の管理者。こう見えて、実は事務の佐伯さんの双子の妹なんだよ」
「へ〜……佐伯さんの……」
一応返事としては口を動かしているが、あいつの表情を見る限り、俺の説明は一文字たりとも脳みそに届いていなさそうだった。
「あ、成瀬の友達ですか〜? よろしくお願いしまーす!」
あさひは高橋に顔をぐいと近づけ、白い手を軽く振ってみせる。
よく見ると、彼女の綺麗な頬はほんのりと赤く染まっていた。いつも以上に声のボリュームが大きいところを見ても、これは相当に酔っ払っているのだろう。
「お前、ちょっと飲み過ぎじゃねえのか?
今日は誰と飲んでるんだよ」
「あ〜……今日は職場の人たちと。他社との重要な打ち合わせがあってさぁ〜、だから今日だけは、この堅苦しいスーツで行かなきゃならなくてさ……」
めんどくさそうに話をするあさひ。
その瞬間、高橋の死んでいたはずの瞳の奥に、かつてないほどの凄まじい輝きが宿るのが見えた。
――ガタンッ!!!
静かなバーの雰囲気をぶち破る激しい音が響き渡る。
高橋はもの凄い勢いで椅子から立ち上がると、迷いのない電光石火の動きであさひちゃんの前に踏み込み、彼女の小さく白い両手を、自分の両手でがっしりと力強く握り締めた。
「え……?」
「? 高橋……?」
俺とあさひちゃんが、あまりの挙動不審っぷりに呆然と目を丸くしていることなんて、今のあいつには一ミリも関係ないようだった。
高橋は深く息を吸い込むと、店内に流れるお洒落なBGMや、金曜の夜を楽しむ他の客たちの騒がしい話し声のすべてを力技で凌駕する、本日最大の男気あふれる大声を張り上げた。
「俺と、結婚してください!!!」




