君に伝えたい言葉
西側の大きな窓からは、燃えるような夕焼けの光が容赦なく差し込んでおり、オフィスの床を濃いオレンジ色に染め上げていく。
その光の反射があまりにも眩しすぎて、俺はすぐに現実から逃げるように視線を斜め下へと逸らした。
優愛ちゃんは、手元の缶コーヒーを喉へと流し込み、しばらくその冷たさを噛み締めるようにした後、ゆっくりと静かに話し出した。
「……高校生の頃、私、こんな性格だから思ったことをすぐにズバズバ言っちゃうでしょう? だから『生意気だ』って、クラスの中心グループにいた一人の女子が言い出し始めて。それにだんだんと周囲が同調していって、気づいたらイジメが始まってたんです」
優愛ちゃんは、缶の表面に浮き出た水滴を、細い指先でそっとなぞりながら言葉を続ける。
「今振り返って考えてみれば、そんな大したことじゃなかったのかなって思えるんですけどね。ありきたりな悪口を言われたり、無視されたり。
でも、他に仲のいい友達はそれなりにいたから、完全に独りぼっちってわけでもなかったんです。
……ただ、プライドだったのかな。そうやって理不尽に意地悪されてるのに、どうしてもやり返すことができなくて、それが自分の中でどんどんストレスになって溜まっていっちゃって……」
彼女は缶コーヒーを、一旦目の前のテーブルの上へと静かに置いた。
そして、長袖の上から、あの古い傷が隠されている左手首のあたりを右手でそっとさすりながら、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「でもね、成瀬さん。これだけは絶対に誤解して欲しくないんですけど……すごく矛盾してるように聞こえるかもしれないけど、私、死にたかったからこの傷を作った訳じゃないんです」
「え……?」
思わず、驚きで喉が鳴った。
「死にたいわけじゃないなら……それ以外に、自分の身体を傷つける意味なんてあるのか……?」
こんな繊細なことを深く聞いていいのかどうか分からなかった。だが、俺の困惑は自然と言葉になって口からこぼれ落ちていた。
優愛ちゃんは、俺のその問いに、ゆっくりと深く頷いた。
「これを自分の手首に刻みつけるとね……『私は、いつでも自分の意思で死ねるんだ』って思えるんです。
どんなに嫌なことや辛いことがあっても、いつでも自分の手で終わらせられる。
だったら、もうちょっとだけ、明日も頑張ってみようって思えた。
……それで、もう少し、あと少しだけって、必死に自分を誤魔化しながら、ちょっとずつ前に進んで行った感じなんです。
だから、これはお守りみたいなもの」
「そっか……。そうやって、色んなものを独りで乗り越えてきたんだな……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
見た目が抜群に可愛くて、職場でも自分の役割をしっかり考えて完璧に立ち回れる、何でも器用にこなせそうに見えていたこの小さな後輩は、その裏側で、想像を絶するような巨大な孤独と苦しみを抱えて生きてきたのだ。
その生きるための壮絶な真実に、俺はただ圧倒されるしかなかった。
「あ、でも! もう何年もやってないので、そこは本当に安心してくださいね。真田さんとも、これからは絶対に自分を傷つけないって、ちゃんと約束したから」
優愛ちゃんは、今さっきまで話していた過去の重い空気をすべて吹き飛ばすような、ひまわりが咲いたような弾ける笑顔を俺に見せた。
だが。
対する俺は――彼女のその眩しすぎる笑顔を見つめた瞬間、劇的な異変に見舞われていた。
突如として、視界がぐにゃりと歪み、喉の奥から激しい思いが込み上げてくる。
優愛ちゃんのその「生きて乗り越えた」という言葉の引き金によって、俺の脳裏に、長い間ずっと封印してきたひとりの男の顔が、鮮烈に蘇ってしまったからだ。
――佐々木。
俺が会社で初めて新人指導を担当した、大切な、可愛い後輩だった。
ある日、仕事に突然来なくなり、連絡も取れなくなった数日後。あいつは自分の家で、自ら命を絶ってしまった。
あの日からの俺は、あいつの突然の死を「自分の指導が悪かったせいだ」「俺が追い詰めたんだ」と、狂ったように自分を責め続けてきた。
どれだけ月日が流れても、あいつの両親から「成瀬さんのせいじゃない、仕事より恋愛の悩みが原因だったみたいだから」と告げられて慰められても、俺の胸の奥のドス黒い罪悪感だけは、どうしても拭い去ることができなかったのだ。
「成瀬、さん……?」
優愛ちゃんの戸惑う声が遠く聞こえる。 気づけば、俺の目からは、堤防が決壊したかのように涙が溢れて、溢れて、どうしても止まらなくなってしまっていた。
目の前にいる優愛ちゃんの姿が涙の水膜でぐしゃぐしゃにぼやけていく。彼女があわてて差し出してくれたハンカチを使い、必死に目元を拭うが、後から、後から、温かい涙が止めどなく溢れ出てくる。
まるで、脳が涙を止める方法を完全に忘れてしまったかのように。
そう、俺は激しく涙を拭いながら、胸の奥でハッとある事実に気がついていた。
――これは。佐々木のことを思い出して、悲しくて泣いているだけではない。
この涙の本当の正体は。
ボロボロになりながらも必死に生き抜いて、今、生きて笑ってくれている目の前の少女に対する、圧倒的な――
『喜び』だ。
「成瀬さん、本当にどうしたんですか……っ」
俺は、頭をがっくりとうなだれ、視線を床のオレンジ色の光へと落としたまま、震える手で、優愛ちゃんのあの保冷剤が押し当てられていた左手首へと、そっと優しく触れた。
傷つけるためではなく、その命の温もりを確かめるように、指先を添える。
「……生きててくれて、ありがとう」




