見える傷痕と消えない傷
すべての仕事を終えて帰り支度をし、静まり返った廊下を歩いていると、廊下の奥にある給湯室から「熱っ!!」という、短い女性の悲鳴が聞こえた。
何ごとだろうと反射的に給湯室のドアを開けて中に入ると、そこには優愛ちゃんがいた。
彼女は痛そうに顔をしかめて自分の左手首の付近を右手で強く押さえており、そのすぐ近くには、まだ湯気を立てている電気ポットがあった。
おそらく、お茶を淹れるか何かしている最中に湯をこぼして火傷をしてしまったのだろう。
俺は「大丈夫か」と声をかけながら一歩踏み込んだ。
優愛ちゃんの前に立ち、押さえられている彼女の左の袖をぐいと肘の上までまくり上げると、目の前の水道の蛇口を捻る。
「しばらくそのままで、ね」
勢いよく流れ落ちる冷たい水道の水に、その細い手首を直接当てさせて強制的に冷却させた。
しばらくそうして患部を冷やさせた後、給湯室の小さな冷凍庫から白い保冷剤を取り出した。
それを優愛ちゃんの左の手首へそっと当てようとして、俺の指先がピタリと止まる。
「あ〜こんなに赤くなっちゃって……それに、傷まで……」
そこまで口にして、俺はハッと息を呑んだ。
……いや、違う。これは、今の火傷の傷じゃない。
赤く腫れ上がった火傷の皮膚の、そのすぐ真下。白い手首の裏側に横一線に刻まれた、いくつもの白い線。それは、明らかに数年以上前に刻まれたであろう、古い、リストカットの痕だった。
俺の視線に気づいた瞬間、優愛ちゃんはパッと弾かれたように俺の手から保冷剤を取り上げた。
そして、その傷跡のすべてを覆い隠すようにして、保冷剤を火傷と古い傷の上に強く押し当てた。
見上げた優愛ちゃんの瞳が、じわりと涙で潤んでいるのが分かった。
それは今の火傷の痛みや恐怖からくる涙なのか、それとも、絶対に他人に見られたくなかった過去の傷を見られてしまった動揺からなのか。
保冷剤を握りしめている彼女の小さな肩が、小刻みに、少し震えているような気がした。
たぶん、そうだろう。だが――。
俺には、彼女の過去の理由を根掘り葉掘り詮索する権利もなければ、お節介を焼く資格もない。
「じゃあ、しっかり冷やして、気をつけて帰るんだよ。もしあまりにも痛みが酷かったら、明日ちゃんと病院に行って診てもらってな」
俺はいつもの冷静なトーンを崩さないようにそう言い残すと、床に放り投げていた自分のカバンを拾い上げ、背を向けて給湯室を出ようとした。
だが、その瞬間。背後から、グイッとスーツのジャケットの袖を強い力で引っ張られた。
驚いて振り向くと、そこにはいつもの『ビジネス可愛い』でもなければ、先日、路上で見せた『凶暴なヤンキー』でもない、ただの一人の怯えた少女のような姿があった。
優愛ちゃんは潤んだ瞳で、何かを必死に懇願するような痛々しい表情を浮かべて俺を見上げている。
そして、その形の良い薄い唇を小刻みに震わせながら、小さな声を絞り出した。
「……兄貴には、絶対に言わないで……」
あの超絶シスコンの阿部。もしあいつが、命より大切な妹のこの過去の傷を知ってしまったら、一体どうなるか。
優愛ちゃんは、自分のことよりも兄を深く傷つけて発狂させてしまうことを何よりも恐れているのだ。
夏の生ぬるい夜。静かな給湯室の中で、水道の水滴がポタポタと落ちる音だけが、やけに大きく響いていた。
数日後。給湯室でのあの出来事を経て、俺は優愛ちゃんに「少し話がしたいです」と呼び出され、社内で最も人が来ない階の自販機前にある小さな休憩所へと向かった。
ミーティング用の個室を借りることもできたが、さすがに男女二人きりで仕事以外の用事で使う姿を見られれば、余計な誤解を招きかねない。
自販機で二人分の缶コーヒーを買い、カタンと落ちてきたうちの一つを彼女に手渡す。
夏の夕暮れの冷たい缶コーヒーは、手にした瞬間からみるみるうちに周囲の空気を吸って、透明な水滴をその表面に纏い始めた。
「あ、手が濡れちゃった」
「俺も。……ほら」
お互いに濡れてしまった手のひらを見せ合い、少しだけ緊張をほぐすように小さく笑いながら、プルタブをパキッと軽い音を立てて開けた。




