すべてのことには意味がある
「あ。そう言えば、あさひが言ってましたよ。
あさひが働いてる会社で、プレゼンを成瀬さんたちにしてもらったって」
佐伯さんはいい感じに酔いが回ってきたようで、とろんとした艶のある瞳で、手元のカクテルグラスをじっと見つめている。
「そうそう。そこで完璧に化粧して、タイトなスーツをピシッと決め込んでてさ。俺、あまりのギャップに全然『あさひ』だって気付かなくて……」
空いたグラスをカウンターに置き、次の酒を店員に頼みながら、俺は何気なくそれに答えた。
「……え?」
隣で、佐伯さんの動きがピタリと止まった。
おぼつかない目つきのまま、冷たい表情で、佐伯さんがゆっくりと俺を見上げてくる。
その視線とぶつかった瞬間、俺はハッと我に返った。
しまっ……た……!!!
脳内で警報が鳴り響く。少し酔ってきたこともあり、完全に油断していた。弁明のための都合の良い言い訳を必死に考えつくよりも前に、彼女の唇から冷たい言葉が放たれる。
「成瀬さん。 ……なんで、あさひって呼び捨てなんですか?」
さっき、優愛ちゃんの話をしていた時のあの『可愛いからかい』とは、明らかにトーンが違う。
本当に間違ってポロリと本音を漏らしてしまったからこそ、俺の喉は完全に癒着し、次の回答を絞り出すまでに致命的な時間がかかってしまう。
「あ……いや、それは、普段から佐伯さんが『あさひ、あさひ』って言ってるからさ。つい、それに釣られて……頭の中で定着しちゃってて……」
精一杯の笑顔を張り付けながら、必死にそんな苦しいカモフラージュを口にする。
だが、俺の心臓は今、はち切れんばかりに鼓動を鳴らしている。
あさひが、敢えて俺と二人きりになるよう仕掛けたあの日。
その時、あさひの重い病気を聞かされた。
それで俺たちの距離は精神的に一気に縮まったのだ。
それに、あの金髪でぶっきらぼうな彼女のキャラクターを知っているからこそ、どうしても『あさひちゃん』なんて余所余所しい呼び方はしづらい。
俺にとっては『あさひ』という呼び捨てが、最も自然でしっくりきてしまっていた。
あさひと、やましい関係なんて一切ない。
誓って、天に恥じるような下心はない。
……ただ、その時に一方的に『下着姿』を見せられたけれど、それだって決してやましい意味なんかじゃない。
1日に数回、自分の肌に直接刺さなければならないインスリンの注射。その具体的な方法や、どうしても消えない生々しい注射痕を見せるために、あさひが自ら進んで服を脱いだだけだ。俺が無理矢理脱がせたわけでも、強制したわけでも決してない。
ただ、あさひから懇願されたのだ。
みのりには絶対言うな。いつか、自分で話す準備が出来たら自分から言う。
……ただ、それを言った時に、みのりを後ろからしっかり支えてくれる人がいてほしい。その時に一緒に動揺してたら、支えられないだろうから、先にこのことを知っていて欲しい。
……と。
自分の命に関わる病気の苦しみよりも、姉の心を傷つけないためのシミュレーションを優先する、妹のあまりにも健気で重すぎる優しさ。
俺はそれを背負っているからこそ、今、目の前で不安そうに俺を見つめている大好きな恋人に、真実を何も話すことができない。
「そっか、あたしいつも『あさひ、あさひ』って言ってますもんね」
佐伯さんはそう言って、ケラケラと無邪気に笑いながらカクテルの入ったグラスに口を付けた。
あ、危ねぇ……!!
心臓のバクバクを必死に抑え込む。
佐伯さんがいい感じに酔ってくれていなかったら、俺の今のあの下手くそな返しじゃ絶対に通用しなかっただろう。
俺は佐伯さんに動揺をバレないよう、ホッと心の内で胸をなで下ろしながら、ゆっくりと深く呼吸を整えた。
そして、何事もなかったかのように平然を装って、以前から疑問に思っていたことを口にする。
「それにしても、あさひは何であんなに化粧してスーツを着ると綺麗になるのに、普段は金髪ボサボサでピアス、パーカーにジーンズなんだ?
……もしかして、私生活は意外とめんどくさがり屋?」
「ああ、違いますよ。前はね、普通に綺麗な黒髪ロングヘアで、可愛いワンピースとか着てましたし」
佐伯さんは白く細い指先で自分の髪の毛をくるくると絡めながら、とろんとした瞳を俺に向けた。
「あの子の職場でね、あさひが『管理者』になったからですよ」
「え? 管理者になったんなら、むしろ服装は逆になるんじゃ……?」
どうにも一般常識と辻褄が合わないので、俺は疑問いっぱいの顔をそのまま佐伯さんに返す。
「あの子の会社って、携帯電話のコールセンターでしょう? だから、新しい求人を出す時に『髪型、服装、ネイルにピアスも完全自由!』って書いて出したんですって。
でも、実際に入社して来た人たちは、日本の会社だからってみんな無難できちんとした格好ばかりしちゃって。
だからその後に新しく入る人たちも、
『あ、やっぱり自由って書いてあっても、みんな普通の格好をしなきゃいけないんだ』って同調圧力に続く感じになっちゃって、なかなか自由な雰囲気にならなかったんですって。
それで後から入った若い人たちから『自由って書いてあったのに不自由だ』って不満が出始めて……」
「ああ、なるほどな」
そこまでの説明を聞いて、俺はすべてを察した。
「上の人間が自ら進んでそれをやれば、下の部下たちもやりやすくなるってことか」
佐伯さんは「そう、その通り!」と満足そうに何度もコクコクと頷いている。
「まあ、あと半分は、私のボディーガードみたいなことをするためかな。夜に二人で歩く時とか、か弱い女二人で歩くより、男女のカップルに見えた方が何倍も犯罪に巻き込まれなくて安全なんですよね」
「あはは、確かにそれはいいアイデアだと思うし、俺としてもそっちの方が安心するよ」
楽しそうに、そして誇らしそうにあさひの隠されたカッコよさを話す佐伯さんの横顔。
薄暗いバーのネオンに照らされたその表情がたまらなく愛しくて、だけど、この子のことを愛しいと思えば思うほど、俺の胸の奥からは、あさひの本当の病気のことを隠し続けている罪悪感が、じわりと溢れてくるのを感じていた。
――いつか。あさひが、この子に本当のことを話すその時は。必ずこの子の傍で、俺が誰よりも強く、しっかり支えてやろう――
胸の中で、そう静かに誓いを立てた。
「成瀬さん? 本当に今日、どうかしました?
さっきから考え事ばかりしてないですか?」
「……ううん。なんでもないよ」
俺は、お喋りを止めて不思議そうに俺を見つめる佐伯さんの、テーブルの上の小さな手を、そっと包み込むようにして優しく握りしめた。
佐伯さんは、店の暗がりの中でもはっきりと分かるくらい、耳の先まで真っ赤になった。
「夜も更けてきたし、そろそろ帰ろうか……」
金曜日の夜にデートをした後は、そのまま俺の家に泊まりに行くのが、いつからか始まった二人の特別なお決まりルールだ。
今から向かうその先の時間を想像したのだろう、彼女は「はい……」と小さく、だけど心底幸せそうに照れ笑いを浮かべた。
店を出ると、雨上がりのアスファルトが街灯のネオンを弾いてキラキラと輝いている。
あさひから預かった、誰にも言えない重い秘密。
俺はそれをすべて自分の胸の奥にそっと仕舞い込み、大好きな人の笑顔と、この愛おしい金曜日のルーティンを守るために、ただ静かに寄り添い続けることを誓った。
夏の夜、並んで歩く俺たちの影は、いつもより少しだけ、お互いの距離を近くするような気がした。




