それぞれの秘密と理由
金曜の夜。今日はお洒落な間接照明が灯るダイニングバーのカウンターで佐伯さんを待つ。
「成瀬さん、お待たせ。結構待たせちゃいました?」
ふわりと甘い香り、それに相応しい優しい声がして、隣の席に佐伯さんが滑り込んできた。思わず目を細めてしまう。
さっきまで職場で会っていたというのに、場所が違えば服装も雰囲気も違って見える。
今日は、仕事帰りにここに来ることを伝えていたので、ちゃんと服装も仕事用の堅苦しい服装ではなく、この場でも浮かない服装を選んでくれている。そういう細かい気遣いも嬉しい。
「いや、俺も今来たところ」
「じゃ、乾杯しましょ」
周囲の目を気にする必要のない、二人だけの空間。少し足を伸ばして、会社のやつと会わなさそうな場所を選んで正解だった。
カラン、と静かに氷の音を響かせてグラスを合わせ、カクテルを喉に流し込む。
店内は暗く、他の客たちの顔もよくわからない。だが、みんな楽しそうに、だけど居酒屋よりずっと落ち着いた雰囲気でそれぞれの夜を楽しんでいる。
佐伯さんの笑顔を見た瞬間、仕事の疲れが綺麗さっぱり溶けていくのが分かった。
やっぱり、俺の帰るべき場所はここだ。
「そういえば、成瀬さん。この前、優愛ちゃんが成瀬さんやお兄さんや彼氏と、みんなで会えて楽しかったって言ってましたよ」
「え? 楽しかった? 『大変だった』の間違いじゃなくて?」
思わずグラスを持つ手に力が入る。グラスに出来た水滴が指を伝ってテーブルへ落ちていく。
「え? 何か大変だったんですか?
すごい笑顔で話してくれて、本当に楽しかったみたいでしたけど?」
佐伯さんはさも不思議そうな顔をこちらに向けてくる。
「そうなんだ……」
あの状況を、まあほとんど優愛ちゃんの叫び声が占めていたあの事態を楽しんでたというのか……
さすが肝が座ってるというか……
佐伯さんには、優愛ちゃんが豹変した話どころか、会ったことすら言ってなかった。優愛ちゃんの評判が落ちることは出来るだけ避けたい。
だが、その心配は杞憂に終わる。
「阿部さん、職場と外で違うんだな……」
それだけ呟くと、佐伯さんがパッと嬉しそうな笑顔をこちらに向けてくる。
「やっとわかりました!?」
「え? やっとって?」
目をキラキラ輝かせて佐伯さんが続けるが、それの意味がわからず疑問の顔を返す。
「成瀬さんたちは、可愛らしい阿部さんしか見てなかったでしょうけど、いつもはヤンキー口調ですよっ」
「え……? でもそれは、同性の前でだけ、だよな?」
佐伯さんは、もう我慢できない様子で、グラスを持ったままそれを軽く振りながら、先ほどより少し声を弾ませトーンを上げる。
「それが、優愛ちゃんは違うんですよ〜!
同性の前でだけそんなヤンキーで、異性の前で可愛くしてたら、それこそ同性から嫌われるでしょ?
事務内では、同性異性関係なく、あんなしゃべり方なんです」
佐伯さんは興奮した様子で続ける。
「しかも、こないだ本部の偉い人に、近くにいた優愛ちゃんがお茶汲み頼まれて、『そんなの仕事じゃねえ!!』ってぶちまけて……
もう、その後が大変大変。事務主任がどんだけ頭下げたことか……!」
佐伯さんは、大変大変と言いながら、楽しそうに爆笑に近い笑い声を上げている。だが、店内は少し大きめのジャズのBGMが流れているので、彼女の賑やかな笑い声すら周囲のノイズに溶けて、まったくそれすら気にならない。
佐伯さんの話すその光景が、簡単に頭に思い描けるので思わず笑みがこぼれてしまう。
それで納得がいった。
以前、可愛い子はイジメられたりすることが多いが、『優愛ちゃんは特別で、そんなことはないんだ』と、佐伯さんが言っていたことが思い出された。
「で、でも営業部に来た時は可愛い感じだったよ」
「可愛い」という言葉を聞いて、佐伯さんが嫉妬してイラッとしたのに気付いた。そういう佐伯さんも可愛らしくて好きなので、こうやってわざと意地悪を仕掛けることもある。
いつもなら「もう、成瀬さんってば!」と可愛く膨れるところだが、今日の彼女は、どうしても俺に話したい別の本題があるらしい。
彼女は俺の些細なトラップにそれ以上気を止めることなく、真面目なトーンを崩さずに言葉を続けた。
「優愛ちゃん、それも自分で言ってましたよ。そうやってニコニコしてた方が、営業部の人たちと仕事の接点が作りやすいし、スムーズにいくんだって。
その場、その場に応じて自分がどう振る舞うべきかちゃんと考えて対応できる、本当にしっかりした子なんですよ」
なるほどな、と深く納得した。
お茶汲みを「仕事じゃねえ!」と一蹴するほどの強い芯を持ちながらも、チーム全体の歯車を円滑に回すために、あえて『可愛いマスコット』の役割を割り切って演じてみせる。
ただのヤンキー娘ではなく、プロとしての確かな処世術と覚悟がそこにはあった。
「本当に、見かけによらず大物だな、優愛ちゃんは」
「あっ! しかも優愛ちゃんって、阿部課長の妹さんなんですよね!?」
さらに興奮が冷めやらないといった様子で、佐伯さんは俺の方にぐいと顔を寄せてきた。
「ああ、そうだよ」
俺は苦笑交じりに頷いた。俺と高橋の間では、あまりにも知っていて当然のこと過ぎて、わざわざ話してはいなかった。
それにしても、と心の中で思う。
さっきまで俺たちの間でも「阿部さん」だったはずが、いつの間にか、俺も佐伯さんもごく自然に「優愛ちゃん」の呼び名で定着してきている。
職場にいる一人の後輩の存在自体が、この会話を通して俺たちのプライベートの領域へと、ぐっと近づいてきたような不思議な感覚を覚えた。
「そうそう。なんか俺たちにとっては普通すぎて、わざわざ言うの忘れてたもんな」
俺がカクテルを飲みながらそう返すと、佐伯さんは手元のカクテルグラスへと視線を落とした。
うっすらと暗い照明の中、グラスの縁についた自分の淡い口紅の痕を、白い指先でそっとなぞりながら、どこか感じ入ったように呟いた。
「課長の妹だなんて、職場でチラつかせたら色々と得することだってあるはずなのに……。
そんなことも一切自慢したり鼻にかけたりせずに、みんなに隠して自分の実力だけで仕事してて。
やっぱりそういうところも、本当にカッコいいなぁ〜……」




