冷徹な仮面と理想
脈絡のない唐突な一言に、俺の脳の思考回路が完全に一時停止した。
だが、ここで動揺を悟られてはならない。俺は何とか声を絞り出し、平然を装って口にした。
「そうですか……」
高橋からは別れたなんて一言も聞いていなかった。いつの間にそんなことになっていたのだろうか、という疑問が一気に頭の中を駆け巡る。
すると、瀬戸さんが先ほどまでの上品な笑顔とは違う、どこか冷徹で不敵な笑みを見せた。
「斗真と私が付き合ってること、知ってたんですね」
「……え?」
瀬戸さんはぐいと、上体をこちら側に傾けて顔を近づけてきた。
俺たちの間には、事務スペースと廊下を隔てるハイカウンターがあった。それが唯一の救いだった。
この鉄のカウンターが、俺を彼女の放つ蛇のような威圧感から守ってくれている、唯一の盾だ。
今まで、あの高橋を『斗真』と下の名前で呼ぶ女など、あいつが過去に付き合ってきた本命の彼女以外ではいなかった。
だから、やはり、この目の前の女性はそういうことなのだ。
「普通ね、『別れた』なんて突然聞かされたら、旦那と離婚したんだと思うでしょ?
離婚したなんて言われたら、どうしてそうなったかとか根掘り葉掘り理由を聞かれるか、可哀想にって同情されるものなんですよ」
瀬戸さんはその綺麗な表情を不敵に歪めたまま、胸の前で腕を組んだ。
「なのにあなたの今の反応は、最初から『不倫相手と別れた』って分かっている人の言い方だった」
そして、彼女の顔から、すべての笑みが一瞬で消え失せて完全な無表情になった。
「しかも、私が今『別れた』と言った瞬間。
……ホッとした顔をしたのよ、あなた」
一気に、背筋が凍りつくようなゾクッとした悪寒が走り抜けた。
これは、雨で冷え切った身体に、オフィスの強すぎるクーラーが当たったせいだ。
……そうだ。そうに違いない。俺は、自分にそう強く言い聞かせるしかなかった。
瀬戸さんは、俺が恐怖と衝撃のあまり何も言い返せないのをいいことに、静かに言葉を続けた。
「あなたのせいで別れたのよ」
今の俺は、まさにことわざに言う『蛇に睨まれた蛙』そのものだと思った。
全身の血が凍りついたようで、一歩も身動きが取れない。
だが、その蛙だって、ただ黙って食われるわけにはいかないのだ。きっと蛙も、自分がなぜ理不尽に捕食されなければならないのか、その理由くらいは最期に疑問に思うだろう。
俺は喉の奥でゴクリと乾いた唾を飲み込み、重かった口をゆっくりと開いた。
「……どうして俺のせいになるんですか?
俺は二人の関係に反対なんてしてないし、誰かに言い触らしたりもしなかったです」
「あなたに勘付かれてしまったからよ。たったそれだけのことが、あの人にとっては自分のこれまでの行動や意志を根底から揺るがせるほどの事だったの」
瀬戸さんの声のトーンに、じわじわと苛立ちのトゲが混ざり始めるのが伝わってくる。
胸の前で組んでいる彼女の白い腕、その皮膚にぎゅっと食い込んでいる指先に、痛いほどの力が加わっているのが分かった。
「斗真はね、あなたの前では、ずっと『理想の自分』でいたかったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、あの日、苦渋に満ちた顔でこの不倫の事実を俺に告白してきた高橋の姿が、鮮烈に脳裏に蘇った。
『お前だけには、絶対に知られたくなかった』
あいつがボソリと漏らしたあの言葉の本当の意味を、俺は今、最悪な形で理解させられていた。
「いきなり、別れを突き付けられたの。大した理由もなくね。何度理由を聞いても、口を閉ざして何も言ってくれなかった。
……まあ、私としては、まあいいかって別れたけど」
俺が聞きもしないのに、彼女は淡々と、まるで他人の恋の顛末を語るように昔話を始めた。
「あの時は、正直誰でも良かったの。斗真じゃなくても、ね」
瀬戸さんはフッと嘲笑うような笑みを浮かべると、こちらへ流し目を向けた。
「あなたでも良かったのよ、成瀬さん」
ハイカウンター越し、四十歳の女の艶めかしい視線が俺を真っ直ぐに見上げてくる。
だが、そんな誘惑に対してドキッとするどころか、俺の身体の奥底からは、今まで経験したこともないような真っ黒で激しい怒りが、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
握りしめているビニール傘の持ち手が、バキリと音を立てそうなほど、指先に痛いほどの力が加わる。
「旦那が浮気してるのが分かってね、私も当てつけにやってやろうって感じだったし。そんな時にちょうど都合よく目の前にいたのが、斗真だった。お酒を飲んで、たくさん話して、流れでそうなって。
別に別れる決定的な理由もなかったから、なんとなく一緒にいただけのことよ」
――瀬戸さんのその冷酷な言葉を聞きながら、俺は燃え盛る怒りの中で、ようやく『答え』に気がついた。
かつて高橋からこれを打ち明けられた時、俺の胸を支配した、あの正体不明の強烈な不快感。その違和感の正体は、これだったのだ。
不倫という倫理的な問題に対して怒っていたんじゃない。
俺の、何よりも大切な親友が、あんなに優しくて、誰よりも俺の意思を尊重してくれる最高の男が、不倫という『本命になれない立場』に独りで立たされ、こんな女に都合のいい道具として、ただ雑に扱われ、いつか深く傷つけられるのではないか。
あいつを失うかもしれないという、親友としての切実な不安と心配。俺の脳は、あいつを大切に思うがゆえのその恐怖を、あの時「不快感」として処理していたのだ。
「……瀬戸さん」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど低く、そして冷え切っていた。
俺はまだ、ビニール傘の持ち手を強く握り締めていた。だけど、もうズボンの裾が濡れて肌に貼り付くあの気持ち悪さは、これっぽっちも感じなくなっている。
「高橋は、俺にとって大切な、絶対に替えの利かない友人です。
あなたは『誰でもいい』んでしょう?
――だったら、もう二度と、高橋とは関わらないでください」
呼吸を整え、ハイカウンター越しの彼女を真っ直ぐに見据える。
「あいつは、あなたに消費されていい男じゃない」
さっきまで俺の身体を支配していた恐怖や怯えは、親友を想う激しい怒りによって完全に書き換えられていた。
そのお陰だろうか。いつもの、仕事がデキる男のような口振りで、堂々と言い終えることができた。
気がつけば、傘を握りしめていた指先の力も少しずつ緩んでいく。自分自身の状態を客観的に見つめ直せるほど、俺の心には、いつの間にか確かな余裕が戻ってきていた。
せっかく完璧に引導を渡せたというのに、瀬戸さんから返ってきた反応は、ひどく意外なものだった。
「アハハハ……!!」
甲高い、ひび割れたような笑い声が静まり返ったオフィスに響き渡り、俺の鼓膜に容赦なく突き刺さった。
その鋭い声の破片は、周囲の事務デスクやソファ、そして一切の熱を持たないスチール棚にさえ、鋭いトゲのようにあちこちに突き刺さって跳ね返っているのではないかと錯覚するほどだった。
「何それっ! 学生じゃあるまいし、男同士の友情なんて……馬鹿じゃないの!? 本気になって守ろうとしちゃってさ!!」
瀬戸さんは胸の前で組んだ腕のまま、今度はお腹を押さえ込むようにして、狂ったように笑いながら俺に言葉を言い放った。あまりにも大げさで、あまりにも不自然な爆笑だった。
俺はこれ以上何も言わず、ただ冷静にその狂おしい姿を見つめ、「それじゃ……」と短く告げて、自分の本来の目的地である営業部のデスクへと足を前に進めた。
彼女に背を向けて歩き出しても、まだあの耳障りな笑い声が、廊下の奥まで俺の後ろを追いかけてくる。
だが、不思議ともう、俺の腹の底から怒りが湧き上がってくることはなかった。
すれ違う直前、俺の目は確かに捉えていたのだ。
高笑いする彼女の、あの冷徹な仮面のような瞳の奥に、じわりと透明な涙が滲んでいたのを。
誰でもよかった、旦那への当てつけだった、理由なんてなくなんとなく一緒にいただけ――。
さっき彼女が並べた冷酷な言葉の数々は、すべて、理由も分からずに突然捨てられた自分のみっともないプライドを守るための、必死の強がりだったのだろう。
あいつを『斗真』と呼んでいたあの瞬間の瀬戸さんもまた、完璧な大人のフリをして、裏では傷つき、血を流しながらもがいている、不完全な一人の人間に過ぎなかったのだ。
薄暗いオフィスの窓の外では、まだしとしとと静かに雨が降り続いていた。俺は自分のデスクに辿り着くと、忘れていた資料の入ったファイルを静かに鞄へと仕舞い込んだ。




