日曜のオフィス
日曜の昼だというのに、俺は職場へ向かうことになった。
明日までにどうしても必要なデータを作るための、肝心の資料を営業所に忘れてきてしまったのだ。
本当に、期日の勘違いに運良く気づいたのだけが救いだった。
日曜にわざわざ仕事に行かなければならないことが不運なのではない、期日を破る前に気づけたこの幸運にこそ感謝しないといけない――。
先日、同期との飲み会であれほど大嫌いだと吐き捨てたあの「キラキラ言葉」も、案外こういう極限状態の時には役に立つものなのだなと、我ながら癪ではあったが思った。
家のドアを開けると、夏の雨特有のもわっとした湿気が出迎える。
雨がしとしとと激しく降っているのが目に映ったので、一旦、靴を履きかけた手だけを玄関に戻し、傘立てから傘を取った。
半袖のTシャツに薄手のパーカーを羽織っただけの、完全な部屋着スタイル。
傘を差して歩くものの、横から吹き込んでくる小さな雨粒にだんだんと身体を濡らされていく。靴が濡れるのは最初から覚悟していたが、ズボンの裾が雨水を吸って肌に貼り付いてくるのには、どうしても耐えがたい気持ち悪さを覚えた。
早く資料を回収して家に帰ろう。まずは熱いシャワーだ。資料作りはそれからでいい。
当然、日曜日に出勤する人間なんて基本的にはいない。オフィスの鍵も閉まっているので、まずは守衛室で鍵を借りるために立ち寄った。
建物内に入るとガンガンにクーラーが効いており、先ほどまで雨に触れられていた身体は、まるで優しく氷を押し付けられたような心地になった。
こちらから挨拶をする前に、顔なじみの守衛である井上さんから声がかかる。この人は定年退職後にこの仕事に就いたと、いつかの立ち話で言っていた。
「あれ? 成瀬さん、日曜に珍しいですね」
井上さんはそう言いながら、守衛室の小さなガラス窓から、にこやかに顔を覗かせている。
「そうなんですよ、ちょっと急ぎの用があって……。
あ! それより井上さん、お孫さん産まれたんですよね!? おめでとうございます!」
先日、エレベーター前での立ち話で「もうすぐ初孫が産まれるんだ」と嬉しそうに語っていたのを思い出し、声を張った。
「そうなんです! よく覚えてらっしゃいましたねぇ」
井上さんは目尻を深く下げ、本当に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。
営業所の鍵の借用書に名前を書こうと、備え付けのボールペンに手を伸ばしたが、それを井上さんの手によって制される。
「ああ、大丈夫ですよ、書かなくて。もう既に、先に来られた方が鍵を開けて入っていますから」
「あ……そうなんですか。わかりました、それではまた」
挨拶を交わし、俺は営業所のある階へと向かうためにエレベーターへと歩き出した。
こんな休日に、一体誰がいるというのだろう。
高橋か? いや、あいつは所長だからマスターキーを私物として持っている。だからここに来ることがあっても、守衛室で鍵を借りる必要はない。
……じゃあ、佐伯さん……?
脳裏に、愛しい恋人の顔が浮かぶ。
確か今日は別の用事があると言っていたはずだが、もしそれが仕事の用事なら、あえて俺に気を遣いカモフラージュしたのだろうか。
もし、あの静かなオフィスに佐伯さんが一人でいるのだとしたら。ここで偶然会えたら、仕事なんてサクッと終わらせて、そのまま一緒に遅めの昼飯を食べに行ったりして、休日を一緒に過ごすことができるかもしれない。
誰もいないエレベーターの中で、そんな自分に都合のいい妄想が、自然と頭を支配していく。
チーン、と目的の階に到着した電子音が鳴る。
エレベーターを降り、薄暗い廊下を進む。ふと自分の傘についた雨粒がまだ残っていることに気づき、手首を返して軽くそれを振り払った。フロアのカーペットの上に落ちた数滴の雨粒は、染み込むようにしてすぐに消えていった。
俺はゆっくりと、すでに鍵が開いているという営業所のドアノブに手をかけた。
ドアを開け、営業部の自分のデスクを目指す。そこまでの道のりで、佐伯さんや優愛ちゃんが所属する事務のデスク前を必ず通ることになる。
薄暗いフロアの奥、やはり事務のエリアだけ電気の明かりが白々と点いていた。
まだ、心のどこかで淡い期待を捨てきることができない。その密やかな想いを壊さないよう、大切に胸に抱きながら、俺は足早に事務スペースが見える通りへと歩を進めた。
パーテーションの隙間から、微かに女性のスカートの裾が見えた。
やっぱり、佐伯さん――
声を掛けようと大きな柱を通り抜け、遮るもののない位置に着くと同時に、期待を込めてそちらに顔を向ける。
「あら、成瀬さん」
予想していた、穏やかな声。
……だが、それを発した主は、俺が恋い焦がれていた佐伯さんではなかった。
そこにいたのは、瀬戸さんだった。
かつて高橋が苦い顔で話してくれた秘密が蘇る。既婚者であるこの瀬戸さんと、あいつが不倫関係にあるということ。
社内での見た目も役職も完璧である高橋の、それが唯一の致命的な欠点だと思った。
あの時、あいつから事情を聞かされた俺は、何故かひどく嫌な気持ちになったのを覚えている。だが、その胸のモヤモヤとした不快感が何故なのか、その時の俺には分からなかった。
瀬戸さんはいつも通りの丁寧な微笑みを浮かべていたけれど、俺の目は誤魔化されなかった。彼女がドアの開く音を聞いて顔を上げたその一瞬、ひどく残念そうな落胆の表情を作ったのを、俺は見逃さなかった。
入ってきたのが、自分が期待していた高橋ではなかったから――そう予測するのは容易だった。
だけど、同じように佐伯さんではないと分かって落胆した俺も、彼女と同じような顔をしていたのかもしれない。
嫌な汗が、じんわりと背中に滲んでいくのが分かる。 ただでさえ夏の雨に降られ、じっとりと湿ってしまった俺の身体は、この妙な空気のせいでなお一層湿度が高くなりつつあった。
「すごく濡れてらっしゃいますね、良かったらどうぞ」
瀬戸さんは手際よく棚から白いタオルを取り出すと、俺に渡そうと滑らかな足取りで近付いてくる。
瀬戸さんは今年で四十歳になったばかりだと聞いた。だが、こうして至近距離で間近に見ても、俺と同じか、下手をすれば年下にすら見える。
少し茶色がかった、緩いウェーブの長い髪を白く細い指先で耳にかけながら、反対の手でタオルを握りしめている。その動作によって、露わになった耳元でゆらゆらと妖しく揺れるピアスから、何故か目が離せなかった。
「はい」と笑顔で手渡され、今までこの見慣れた事務所では一度も感じたことがないような、粘りつくような嫌な緊張感が這い上がってくる。
休日特有の、瀬戸さんの歩く靴音しか聞こえない不気味な静けさが、まるで現実味を持たない空間を作り上げていた。
「ありがとうございます」
軽く会釈をしながら、受け取ったタオルで濡れてしまった腕の水分を拭っていく。さすがに目の前で足元をガシガシ拭くのは失礼なので、気持ち悪い裾の貼り付きは我慢することにした。
……いや、この濡れたズボンが貼り付く不快感よりも、今この状況そのものの方が、何倍も気持ち悪い。
彼女の顔がずっと張り付いた仮面のような笑顔のままなので、俺も負けじと、ビジネス用の当たり障りのない笑顔を向けた。
「本当に助かりました。これ、洗って返しますので……」
「私たち、別れたんです」




