雲の上の真田様
「優愛〜、もうそのぐらいにしとけよ〜」
真田は、俺たちにはこれまで一度も聞かせたことのないような、甘くて優しい声を出しながら、優愛ちゃんの細い腰にまた自然な手つきで手を回し始めた。
いやいやいや、凄すぎだろコイツ……!!
俺の脳内で真田へのリスペクトメーターが限界を突破して爆発した。
この一触即発の、今にも火の手が上がりそうなタイミングで距離を詰められるか普通!?
しかも、目の前で激怒している「彼女の実の兄ちゃん」の真ん前だぞ!?
「だってぇ〜……」
さっきまでドスを利かせていた優愛ちゃんが、一瞬でクリクリとした潤んだ瞳で真田を見上げ、とろけるような甘えた声を返した。
そして、素直に真田の大きな体の傍へと戻って行く。
え……優愛ちゃん!?
めっちゃ可愛いんだけど、何それ!!
これが俗に言う、究極の『ギャップ萌え』というやつか。さっきの化け物じみた凶暴性と、現在の守ってあげたくなるような庇護欲をそそる可愛さ。
このジェットコースターのような激しい高低差を味わわされたら、そりゃああの小生意気で冷静な真田が骨抜きになってハマるのも無理はない。納得しかなかった。
「あーーー!! なんでだよ!! なんでまたそいつのところに戻ってくんだよ!! よりによってなんで真田なんだよ!!
高橋や成瀬ならまだしもっ!!」
阿部は妹が目の前で見せつけた「女の顔」と、相手がよりによって真田だという現実をどうしても受け入れることができず、頭を抱えて同じ絶叫を繰り返している。
……というか、待て。
今、阿部はなんて言った?
『高橋や成瀬ならまだしも』、だと?
……え? 俺、優愛ちゃん狙って良かったの?
ふと、目の前の修羅場とは全く関係のない思考が、俺の脳内を電光石火の勢いで駆け巡った。
普段の阿部は、俺が「優愛ちゃん」と親しげに名前で呼ぶことすら「気安く呼ぶな!」と烈火のごとく怒って許さなかった。
だから、もし万が一にも彼女に手を出そうものなら、確実に阿部に物理的に殺されると本気で思っていたのだ。だけど、あいつの今の口ぶりからすると、俺や高橋なら「お兄ちゃん」として歓迎する余地があったということなのか……?
実は狙っちゃっても良かったのか……!?
目の前で繰り広げられている地獄絵図は、どこまでいっても他人事だ。
だからこそ、俺の脳みそは完全に現実を逃避し、自分に都合の良い独り言の方へと猛スピードで迷走を始めていた。隣にいる高橋が、そんな俺の様子に気づいて白い目を向けていることにも気づかずに。
阿部たちの騒ぎをよそに、隣にいた高橋がふっと呆れたように笑いかけてきた。
「ハハッ……いや、ないない。成瀬、お前とそういうことには絶対ならないって」
完全に頭の中の的外れな妄想を読み取られていたようで、顔から一気に火が出るような恥ずかしさが込み上げてくる。俺は動揺を隠すように、あえて声を荒げて反論した。
「なっ……なんでだよっ! 真田であそこまでいけるなら、俺だってポテンシャル的には……!!」
「見ろよ、あれを」
高橋は俺の情けない負け惜しみを相手にせず、顎をクイッと動かして、三人の方を指し示した。
「真田のあの余裕っぷり。あんな度胸、お前にも、当然俺にもねえよ。優愛ちゃんに選ばれるには、それなりの理由がちゃんとあるんだって」
言われて改めて真田を見る。あいつは阿部の絶叫を涼しい顔で受け流しながら、まるで荒れ狂う猛獣の背中を撫でるように、優愛ちゃんの背を優しくさすっていた。
確かに、あの修羅場のど真ん中で「恋人の男」としてのポジションを誇示し続けられる胆力は、並大抵の三十代にはない。
そして優愛ちゃんは、先ほどの阿部の「よりによってなんで真田」という言葉に、またしても火に油を注がれたかのように、苛立ちを隠せないでいた。真田が必死になだめてはいるものの、彼女の脳内の沸点はもう完全に限界を迎えていた。
「真田さんを悪く言うなっ!!! お前より何倍も、人間出来てんだよ!!」
夜の居酒屋街に、本日三発目の、そして最も重い優愛ちゃんの怒号が炸裂した。
実の妹から「人間が出来ていない」と真っ向から完全否定されたのと同じことを言われた阿部は、その場にガハッと崩れ落ちそうなほど凄まじい衝撃を受けて硬直していた。
「あ、じゃあ、みんなで2軒目行く?」
真田の口から飛び出したそのあまりに気の抜けた提案に、俺は今までの修羅場がすべて夢だったんじゃないかと思うほどの、すさまじい衝撃を受けた。
……え? 君、見てたよな? 今までの地獄みたいな兄妹喧嘩、全部特等席で見てたよね?
この修羅場の元凶である君が、一体どの口でそれを言ってんだよ……!?
思わずあんぐりと口を開けてフリーズする俺を置き去りにして、真田はさらに言葉を重ねる。
「じゃあ行くかぁ〜。そこ曲がったとこに、遅くまでやってるお洒落な飲み屋があんだよ〜」
俺も高橋も、ましてや当事者の阿部すら誰も返事をしていないのに、あいつはサクサクと一人で話を進めていく。
完全に主導権を握られた優愛ちゃんは、文句を言いつつも観念したように大人しく真田の後をついて行く。
いつの間にか、周囲の賑やかだった人通りもまばらになっている。深夜の気配を帯び始めた生ぬるい夜風が、どこかの居酒屋から漂ってくる香ばしい焼き鳥の匂いと共に、俺たちの横を静かに通り過ぎていった。
阿部はポケットから取り出したハンカチで、額から噴き出た大量の冷や汗を何度も拭いながら、のそのそと重そうな身体を引きずるようにして二人の後をトボトボと歩き始める。
肩は完全に丸まり、地面に視線を落としたその顔には、もう一ミリも戦意は残っていそうになかった。
「はぁ……。行くか、高橋」
「ああ……。置いていくわけにもいかないしな」
俺と高橋も小さく肩をすくめ合い、その後ろ姿に続く。 前を歩く、付き合いたての初々しくも甘い雰囲気を漂わせる真田と優愛ちゃん。
そして、その後ろを死んだ魚のような目でゾロゾロとついて行く、俺と高橋と、半泣きの阿部。
……端から見れば、カップルの邪魔をしている三人組にしか見えない。
そんな自嘲気味なツッコミが脳裏をよぎり、思わずふっと笑みがこぼれた。
「おーい、成瀬たち遅えよー!」
遠くから、真田の暢気な声が夜空に響く。
「今行くよ」
俺たちは声を揃えてそう返すと、夏の夜の、奇妙で愛おしい二度目の乾杯へと向かって、力強く足を前に進めた。




