兄ちゃんはつらいよ
走り出した阿部の後を追って、俺と高橋も急いで夜の街を駆け出した。この歳になって夜の繁華街を全力疾走することが、しかも「同期の妹の恋愛トラブル」なんていう理由であるとは夢にも思わなかった。アスファルトを蹴る靴音が、やけに虚しく響く。
だが、俺たちが現場に到着するのなんて当然待たず、一足先に突撃した阿部の怒号が夏の夜空に飛び散った。
「何やってんだよ!! 真田ぁあ!!!」
声をかけられるまで阿部が猛接近していることに気づかなかった二人は、まったく同じタイミングで目を丸くしてパチクリとさせている。
腰に手を回したままの真田が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔のまま、呆然と言葉を漏らした。
「え? 阿部? ……え!! 阿部って、お前……!?」
真田は途中で俺たちの同期である阿部と、目の前にいる優愛ちゃんの苗字を脳内で合致させたらしく、自ずと彼女が「阿部の妹」だと理解したようだった。
その瞬間、俺の頭の中でもすべてのピースがカチリと組み合わさった。
佐伯さんが言っていた、プレゼン関係で付き合うことになった、という話。
確かに、あの大型プレゼンの場には真田もいた。相手が同じ営業所の渡瀬だと勝手に信じ込んで疑わなかった自分が、今になって猛烈に恥ずかしい。
同時に、誰にも自分の大外れの予想を口にしていなかった過去の自分へ、心の底から感謝した。
真田は俺たちの元同僚だ。俺たちより一つ年下だったが、恐ろしいほどのやり手で、数年前までは当時の阿部と同じ『所長』のポジションに就いていた男だ。
阿部は般若のように顔を真っ赤にしているが、対する真田はすぐに平然とした態度を取り戻した。
阿部の殺気立つ怒りなど、これっぽっちも気にする素振りもない。元々、こういう心臓に毛の生えたような図太いヤツなのだ。
「あー、そっかそっか。お前の妹だったか。苗字一緒だもんな」
一人で納得する素振りを見せるが、驚くべきことに、真田の手はまだ優愛ちゃんの腰から離れていない。真田は元々、年上に対しても敬語を一切使わないフランクな男だ。普段なら気にならないその不遜な態度も、今の阿部にとっては火に油を注ぐ最悪の燃料になる。
しかも、当の優愛ちゃんは優愛ちゃんで、兄に見つかったからといって恥ずかしがったり、真田の背中に隠れたりもしない。それどころか、綺麗な眉間にこれでもかと深い皺を寄せ、怒れる兄をギロリと鋭く睨みつけている。
「優愛!! なんなんだよ!! よりによって、なんでこんな生意気なこいつなんだよっ!!」
阿部はもう怒りを通り越し、世界の終わりを迎えたかのような泣きそうな顔で、実の妹に悲痛な訴えを投げかけた。
その瞬間――。
「うるさいっ!!!」
阿部の声を遥かに凌ぐ、凄まじいボリュームの怒号が辺りの居酒屋街に響き渡った。あまりの音圧に、少し離れた場所にいた俺たちの耳までキンと鳴る。
声の主は、優愛ちゃんだった。
そして、俺は目の前で繰り広げられているあまりにも信じがたい光景に自分の目を疑い、高橋にそっと声をかけた。
「高橋……くん? 俺、やっぱりちょっと飲み過ぎたのかな……。なんかさ、優愛ちゃんが阿部の胸ぐらを力任せに掴み上げて、ガクガク揺さぶっているように見えるんだよね……」
高橋は視線を一切動かさず、死んだ魚のような目で、ゆっくりとその問いに答えた。
「大丈夫だ、成瀬……。俺の目にも、全く同じ恐怖映像が見えてる」
周りを通る浴衣姿の若者たちも、こちらを気にかける素振りは見せるものの、チラリと目を向けるだけで足を止める人は誰もいない。
これがもし男女逆で、阿部が可愛らしい優愛ちゃんの胸ぐらを力任せに掴み上げていたら、正義感の強い誰かが助けに入っていたのかもしれない。
だが、現実は小柄な美少女が男をドスを利かせて脅し上げている図だ。世間は「痴話喧嘩か、あるいはただの恐妻家(恐妹家)の修羅場だろう」と冷ややかにスルーしていく。
一瞬、辺りがシンと静まり返ったかと思った。だが、それは単なる錯覚だった。
優愛ちゃんが次の、より破壊力のある言葉を発するための「溜め」の時間に過ぎなかったのだ。
優愛ちゃんは阿部の胸ぐらをガッチリと掴んだまま、夜の繁華街に二発目の凄まじい怒号を叩き込んだ。
「ふざけんなよ、クソ兄貴ぃい!!! なんでてめぇは女作って自由にヤッてんのに、こっちはいちいちてめぇにお伺い立てなきゃなんねえんだよ!!
いい加減にしろ!! このド級のシスコンがっ!!」
怒りの咆哮と同時に、優愛ちゃんは阿部の胸ぐらを思い切り突き放した。「うおっ」と情けない声を上げながら、阿部はよろよろと後ろへ数歩下がっていく。
すっかり毒気を抜かれ、今にも涙をこぼしそうなほど弱々しい半泣きの顔で、実の妹に縋るように語りかける。
「な、なんでそんな酷いこと言うんだよぉ〜。兄ちゃんは優愛が心配なだけなのにぃ〜……」
地獄絵図のような兄妹喧嘩を特等席で見つめながら、俺はふと、ある重要な違和感に気づいた。
……待て。阿部も真田も、優愛ちゃんのこの豹変ぶりに、一ミリも驚いてなくないか?
阿部は激しいショックは受けているものの、妹の口調や暴力そのものには「慣れっこ」といった様子で、驚く素振りすら見せない。真田にいたっては、ただ腕を組んで、深夜のバラエティ番組でも見ているかのように、静かにその様子を楽しんでいる。
――ということは、だ。
優愛ちゃんは普段、家(あるいは真田の前)ではずっとこのトーンで喋っていたのだろう。
俺たちが職場で毎日見ていた、あの透き通った高い声で返事をして、遠慮がちに恥ずかしそうに笑う「営業所の守るべき美少女・優愛ちゃん」は、高度に作り込まれた仮の姿、いわば『ビジネス可愛い』だったということか。女って本当に恐ろしい。
いや、しかし、ここで一番凄まじいのは、やはり真田だ。
幼い頃からその狂暴性を見て育ってきた阿部とは違う。真田は、ここ数ヶ月の付き合いの中でこの優愛ちゃんの「本性」をすべて見せつけられたはずだ。
それなのに、未だに平然と、恋人として付き合い続けている。
真田、お前……なんて恐ろしい懐の深さをしてるんだ……!
ただの生意気でやり手な後輩だと思っていた真田が、猛獣使いの達人のように見えてくる。
自分の不甲斐なさに悩んだり、サザエさん症候群に怯えたりしている俺たち三十代の遥か先を、あいつは一歩も引かずに突き進んでいる。
阿部の泣き言をBGMにしながら、俺は真田という男が、一気に「雲の上の存在」のように思えてならなかった。




