完璧な大人なんていない
「はぁ……」
ビールをおかわりし、少し酔いが回ってきた頃、俺はふと重い溜息を漏らした。
「なんだよ成瀬、転職やめるって言った割に、まだ浮かない顔してんな」
高橋が串焼きを頬張りながら、鋭く突っ込んでくる。
「いや……さ。この歳になってまで、日曜日になると毎週『サザエさん症候群』に悩むとは思わなかったなと思って」
「あはは! 成瀬でもサザエさんブルーになるんだ」
阿部が声を上げて笑う。そして少し真面目なトーンに声を落として言葉を続ける。
「でもさ、よく考えたら悲しいことだと思わない? それ」
「サザエさん?」
「うん。僕らって人生の中で、起きている時間のほとんどを学校だの仕事だのに費やしてるだろ? なのに、その人生の大半を過ごす場所に『行きたくない』って、行く前からブルーになるんだよ? それって、ちょっと悲しくない?」
「ああ……。それにさ、『サザエさん症候群』って言葉を聞いて、世の中の大半の人間が『ああ、わかる!』って共感するだろ? その事実自体も、なんか悲しいよな……」
どんよりとした空気が流れかけた瞬間、高橋がニヤニヤしながら口を挟んできた。
「まあ、お前がさっき大嫌いだって言ってたキラキラ言葉で言うならさ、『サザエさん症候群って聞いて、え? それって明日からまた新しい楽しみが待ってるってことですか? ってポジティブに考えられるようになりましょう』ってとこだな、ハハッ」
「笑い事じゃないって!」
俺は思わず声を尖らせた。
「子供のころさ、三十代なんて、何でもスマートにこなせる完璧な大人だと思ってただろ? 自分の親とか見てても、一切の迷いなんてないように見えた。
……なのに、いざ自分がその年齢になってみたら、明日からの仕事が憂鬱で、研修一つでギャーギャー騒いで、何一つ完璧じゃない。
みんなどうやって『大人』をやってるんだか分かんなくなるよ」
冷えたジョッキの表面を流れる結露の雫を見つめながら、胸の奥の本音をぽつりぽつりとこぼす。二人はそれ以上からかうことなく、ただ静かに俺の言葉を受け止めてくれていた。
――その後、ひとしきり飲んで俺がトイレから席に戻ってくると、入れ違いに高橋がすっと席を立った。 あいつが廊下の向こうへ消えたのを確かめた阿部が、すかさず俺に顔を近付け、小声で秘密のエンタメを仕掛けてくる。
「なあなあ、高橋の姉ちゃんがモデルってマジ?」「ああ。俺、学生の頃に一回だけ街で見かけたことあるよ。高橋が女と歩いてるから彼女かと思ったら、後から聞いたら姉ちゃんだって言われて」
「え! どんな感じ、どんな感じ!?」
身を乗り出してくる阿部に、俺は当時の記憶を思い出しながら口を動かす。
「えっと……顔がもの凄く小さくて、遠目から見ても凛とした美人でさ。背が高い高橋と並んで歩いてても、まったく違和感がないくらいスタイルが良くて……」
「えーっ! 見たい見たい!! 名前わかる!?」
興奮した阿部は、すでに手元のスマホの検索画面を親指で激しく叩いている。
「おい」
背後から、低く冷ややかな声が鼓膜を刺した。いつの間にか戻ってきていた高橋だ。
阿部は「うわっ!」と声を上げ、慌ててスマホをひっくり返して隠す。
「何で教えてくれないんだよ〜、高橋のケチ〜!」
阿部がわざとらしく頬を膨らませて抗議する姿を見て、俺は耐えきれずにプッと吹き出してしまった。
「こいつの姉ちゃんさ、下着専門のモデルやってたから教えたくないんだって。友達に自分の姉ちゃんの下着姿を見られたくないからってさ」
言い終わる前に、おかしさが込み上げてきてまた吹き出し笑ってしまう。
「えー、本当!? なんだよ、可愛いとこあんじゃーん! シスコン高橋ぃ〜!」
阿部に容赦なくからかわれ、高橋は耳まで真っ赤にして気まずそうに視線を泳がせた。
「うるせえな……。下着モデルは昔だよ、昔!
若い時!
阿部の方がよっぽどシスコンのくせに……」
蚊の鳴くような声で微かに言い返しているが、ゲラゲラと響く阿部の爆笑声にかき消されて届いていない。
阿部のシスコンという言葉を聞いて、俺の脳裏にふと、ある情報がフラッシュバックした。
この前、佐伯さんが言っていたこと。阿部の年の離れた妹で、俺と同じ営業所で働いている優愛ちゃんに、最近彼氏ができたらしいということ。しかも、あのプレゼンのおかげで……と言っていた。
……ということは、俺の予想通り、相手は渡瀬だな。
社内の人間関係のパズルが綺麗にカチッと嵌まった。だが、目の前で大笑いしている超絶シスコンの阿部には、この情報は口が裂けても言えない。今ここでバラしたら、間違いなく発狂して居酒屋の中で大騒ぎするのが目に見えている。
俺は心の中で渡瀬の健闘を祈りつつ、そっと口を閉ざした。
ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、高橋がふと思い出したように、先ほどの話の続きを拾い上げるように口を開いた。
「……ま、完璧に見えるのは、表の顔だけだよ。みんな不完全なまま、なんとか『大人のフリ』をして生きてんだよ」
その言葉に、今度は阿部も深く、噛み締めるように頷いた。
「そうそう。計画を立てて運営してる側の俺たちだってさ、毎週月曜の朝は『あ〜会社行きたくないな〜』って死にそうな顔しながら企画書作ってるしね」
「お前ら……」
思わず、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのが分かった。
なんだ、俺だけじゃないんだな。
完璧になれない自分を不甲斐なく思ったり、サザエさん症候群に怯えたりしていたけれど、目の前の優秀な同期たちも、もしかしたらオフィスですれ違う他の同僚たちも、みんな同じように葛藤し、もがきながら生きているのかもしれない。
完璧な大人なんて、最初からどこにもいない。みんな不完全なまま、誰かを頼り、誰かに頼られながら進んでいるのだ。
「よし、じゃあ明日からも、不完全な大人同士ボチボチやりますか」
俺がジョッキを持ち上げると、二人は「それな!」「明日もほどほどにな!」と笑って、再びグラスを力強くぶつけ合わせた。




