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35歳の俺が上司ざまぁしたり、大人って案外楽しいぞと気づいたりする話  作者: VANRI


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完璧な大人なんていない

「はぁ……」


 ビールをおかわりし、少し酔いが回ってきた頃、俺はふと重い溜息を漏らした。


「なんだよ成瀬、転職やめるって言った割に、まだ浮かない顔してんな」


 高橋が串焼きを頬張りながら、鋭く突っ込んでくる。


「いや……さ。この歳になってまで、日曜日になると毎週『サザエさん症候群』に悩むとは思わなかったなと思って」

「あはは! 成瀬でもサザエさんブルーになるんだ」

 阿部が声を上げて笑う。そして少し真面目なトーンに声を落として言葉を続ける。


「でもさ、よく考えたら悲しいことだと思わない? それ」

「サザエさん?」

「うん。僕らって人生の中で、起きている時間のほとんどを学校だの仕事だのに費やしてるだろ? なのに、その人生の大半を過ごす場所に『行きたくない』って、行く前からブルーになるんだよ? それって、ちょっと悲しくない?」


「ああ……。それにさ、『サザエさん症候群』って言葉を聞いて、世の中の大半の人間が『ああ、わかる!』って共感するだろ? その事実自体も、なんか悲しいよな……」


 どんよりとした空気が流れかけた瞬間、高橋がニヤニヤしながら口を挟んできた。


「まあ、お前がさっき大嫌いだって言ってたキラキラ言葉で言うならさ、『サザエさん症候群って聞いて、え? それって明日からまた新しい楽しみが待ってるってことですか? ってポジティブに考えられるようになりましょう』ってとこだな、ハハッ」

「笑い事じゃないって!」

 俺は思わず声を尖らせた。


「子供のころさ、三十代なんて、何でもスマートにこなせる完璧な大人だと思ってただろ? 自分の親とか見てても、一切の迷いなんてないように見えた。

 ……なのに、いざ自分がその年齢になってみたら、明日からの仕事が憂鬱で、研修一つでギャーギャー騒いで、何一つ完璧じゃない。

 みんなどうやって『大人』をやってるんだか分かんなくなるよ」


 冷えたジョッキの表面を流れる結露の雫を見つめながら、胸の奥の本音をぽつりぽつりとこぼす。二人はそれ以上からかうことなく、ただ静かに俺の言葉を受け止めてくれていた。


 ――その後、ひとしきり飲んで俺がトイレから席に戻ってくると、入れ違いに高橋がすっと席を立った。 あいつが廊下の向こうへ消えたのを確かめた阿部が、すかさず俺に顔を近付け、小声で秘密のエンタメを仕掛けてくる。


「なあなあ、高橋の姉ちゃんがモデルってマジ?」「ああ。俺、学生の頃に一回だけ街で見かけたことあるよ。高橋が女と歩いてるから彼女かと思ったら、後から聞いたら姉ちゃんだって言われて」


「え! どんな感じ、どんな感じ!?」


 身を乗り出してくる阿部に、俺は当時の記憶を思い出しながら口を動かす。


「えっと……顔がもの凄く小さくて、遠目から見ても凛とした美人でさ。背が高い高橋と並んで歩いてても、まったく違和感がないくらいスタイルが良くて……」

「えーっ! 見たい見たい!! 名前わかる!?」


 興奮した阿部は、すでに手元のスマホの検索画面を親指で激しく叩いている。


「おい」


 背後から、低く冷ややかな声が鼓膜を刺した。いつの間にか戻ってきていた高橋だ。


 阿部は「うわっ!」と声を上げ、慌ててスマホをひっくり返して隠す。


「何で教えてくれないんだよ〜、高橋のケチ〜!」


 阿部がわざとらしく頬を膨らませて抗議する姿を見て、俺は耐えきれずにプッと吹き出してしまった。


「こいつの姉ちゃんさ、下着専門のモデルやってたから教えたくないんだって。友達に自分の姉ちゃんの下着姿を見られたくないからってさ」


 言い終わる前に、おかしさが込み上げてきてまた吹き出し笑ってしまう。


「えー、本当!? なんだよ、可愛いとこあんじゃーん! シスコン高橋ぃ〜!」


 阿部に容赦なくからかわれ、高橋は耳まで真っ赤にして気まずそうに視線を泳がせた。


「うるせえな……。下着モデルは昔だよ、昔!

 若い時!

 阿部の方がよっぽどシスコンのくせに……」


 蚊の鳴くような声で微かに言い返しているが、ゲラゲラと響く阿部の爆笑声にかき消されて届いていない。 


 阿部のシスコンという言葉を聞いて、俺の脳裏にふと、ある情報がフラッシュバックした。

 この前、佐伯さんが言っていたこと。阿部の年の離れた妹で、俺と同じ営業所で働いている優愛ちゃんに、最近彼氏ができたらしいということ。しかも、あのプレゼンのおかげで……と言っていた。


 ……ということは、俺の予想通り、相手は渡瀬だな。


 社内の人間関係のパズルが綺麗にカチッと嵌まった。だが、目の前で大笑いしている超絶シスコンの阿部には、この情報は口が裂けても言えない。今ここでバラしたら、間違いなく発狂して居酒屋の中で大騒ぎするのが目に見えている。

 俺は心の中で渡瀬の健闘を祈りつつ、そっと口を閉ざした。


 ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、高橋がふと思い出したように、先ほどの話の続きを拾い上げるように口を開いた。


「……ま、完璧に見えるのは、表の顔だけだよ。みんな不完全なまま、なんとか『大人のフリ』をして生きてんだよ」


 その言葉に、今度は阿部も深く、噛み締めるように頷いた。


「そうそう。計画を立てて運営してる側の俺たちだってさ、毎週月曜の朝は『あ〜会社行きたくないな〜』って死にそうな顔しながら企画書作ってるしね」

「お前ら……」


 思わず、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのが分かった。


 なんだ、俺だけじゃないんだな。

 完璧になれない自分を不甲斐なく思ったり、サザエさん症候群に怯えたりしていたけれど、目の前の優秀な同期たちも、もしかしたらオフィスですれ違う他の同僚たちも、みんな同じように葛藤し、もがきながら生きているのかもしれない。


 完璧な大人なんて、最初からどこにもいない。みんな不完全なまま、誰かを頼り、誰かに頼られながら進んでいるのだ。


「よし、じゃあ明日からも、不完全な大人同士ボチボチやりますか」


 俺がジョッキを持ち上げると、二人は「それな!」「明日もほどほどにな!」と笑って、再びグラスを力強くぶつけ合わせた。



 

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