答えが出る時
「どうした?」
出社して早々、慌てた様子の藤田に目をやる。自分のデスクにビジネスカバンを置きながら、努めて冷静に声をかけた。
「あ、成瀬さん! またミスっちゃったんですよ〜! でもこないだ成瀬さんに教えてもらった方法で対応しようと思ってるんですけど……うわ、どこだっけ!」
藤田はデスクの上に置いたカバンに手を突っ込み、必死に書類か何かを探し出そうとしている。だが、完全に頭がのぼせ上がっているせいか、指先が上手く動かないようでなかなか目当ての物を取り出せない様子だ。
「とりあえず落ち着け。一旦、深呼吸しろ。慌てて解決するもんでもないだろ」
焦る藤田の肩にそっと手を置き、その荒い呼吸をなだめるように、優しく諭すようなトーンで声をかける。
「は、はい……そうですよね、ええと……すー、はー……」
深呼吸を一つ挟んだものの、藤田はすぐにまた慌てだし、一人ぶつぶつと呪文を唱えるように独り言を言い始めた。
「……ええと、まず取引先に謝罪の電話するだろ、そんで代替品を手配するために倉庫に確認して……あ! しまった! 通常業務の方も朝イチでA社に行く約束してるんだった……!!」
頭を抱えてフリーズする藤田。パニクっているのが一目瞭然で、これではいくら本人が頑張ろうとしても周りが見えないだろう。このままではミスの火に油を注ぎかねない。
「藤田……」
俺は一歩踏み込み、怯える藤田の視線をまっすぐに受け止めた。
「大丈夫、大丈夫だから。通常業務のA社の方は、俺が代わりに今から行ってくる。だからお前は、そのミスの対応だけに集中して。もし途中でそれも難しくなったらすぐ連絡しろ、手伝うから」
「成瀬さぁ〜ん……! もう、今すぐ抱き締めていいですか〜!」
藤田が今にも泣き出しそうな、それでいて救世主を見るような潤んだ目で俺を見上げる。
「ハハッ……全部終わってからな」
大真面目な顔の藤田に対して、俺はあえて軽く笑い飛ばしてみせる。 机を挟んだ他愛のないやり取り。バタバタと忙しない朝のオフィス。そんな、「いつもの日常」が、今の俺には、胸が痛くなるほどたまらなく愛しいものとして映っていた。
「――じゃあ、行ってくる。落ち着いてな」
「はい!本当ありがとうございます!! 」
先程より少し落ち着いた様子の藤田に笑顔を向けながら、ビジネスカバンを掴んで席を立った。
A社に向かう前に、前回の提案資料を持参した方がいいだろうと思い、一旦、廊下の奥にある資料室へと向かった。
重い防音ドアを開け、薄暗い棚の並ぶ部屋へと足を踏み入れる。入った瞬間、紙とインクの匂いに出迎えられる。背の高いスチールラックの隙間をすり抜け、目当てのファイルを手に取った。
その時、すぐ隣の通路から衣擦れの音が聞こえた。何気なく目をやりながら通り過ぎようとすると、そこに立つ佐伯さんの姿が飛び込んでくる。
「あ……」
佐伯さんも同じようにこちらを向いたようで、当たり前のように目が合った。佐伯さんは、少し驚いた顔を見せたが、周囲に誰もいないことを確認し、分厚いファイルを持ちながら、いつもの優しい笑顔でゆっくり近付いてくる。俺も引き寄せられるように自然とそちらに足を進める。
付き合ってそれなりに日が経つのに、この資料室で会うのは初めてだった。
……ああ。何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。俺がここにいたい理由はこんなにも近くに、そして確固たるものとして、いつだってあったというのに……
触れることの出来る距離になった瞬間、俺はカバンや資料を置くのを忘れてそのまま抱き締めた。
「成瀬さん!? どうしたんですか? いきなりっ……誰か来たりしたら……」
腕の中で慌てて周囲を気にする佐伯さんの、小さくて柔らかい身体。首筋から香る、いつも知っている甘い匂いが鼻先をくすぐって、胸の奥の想いはなおさら強く、深く、熱くなっていく。今日は特に、この存在が愛おしくて堪らなかった。この手を絶対に離したくない、と身体が叫んでいる。
込み上がる思いを噛み締めながら、耳元でそっと囁いた。
「今日、うち来ない?」
「え……明日も仕事なのに……いいんですか?」
ゆっくりと身体を離しながら、戸惑う彼女の瞳を優しく捉える。
「ああ。今日はどうしても傍にいてほしいんだ……」
佐伯さんは、嬉しそうな表情と、いつもと俺が違うと思ったのか、どこか心配しているような表情の両方を見せる。彼女の繊細さに気付き、わざとフザケた調子で笑ってみせる。
「それに、こないだ着替えも、何かあった時のためにって持って来ただろ〜?
何かあった時の予行練習、しようか」
佐伯さんは軽くハハッと笑い、「はい」と頬を赤らめながら微笑んだ。
この愛しい存在に触れた瞬間、胸の奥の迷いが完全に消え去っていくのが分かった。そして、藤田に泣きつかれて自分の存在意義を図らずも確かめることが出来た。この職場には、俺を頼りにしてくれる仲間たちがいる。そして何より、この子がいる。
どれだけ綺麗で華やかなキャリアを積んだとしても、この手を離してしまったら、俺にとっては何の意味も持たない気がした。俺のいるべき、いや、いたいと心底思える場所は、他でもない、ここなんだ。
この結論を選んだことを、いつか後悔しないでいいように今を精一杯、生きなければならない。
名残惜しかったが、笑顔で軽く手を振り、彼女を残し資料室を後にした。
外に出て歩きながら、この思いが変わらぬうちに安田に連絡を入れる。安田は、恨み言一つ言わず、快く俺の答えを受け取ってくれた。
誘ってくれたことは本当に嬉しかったので、丁寧にお礼を付け加えた。電話を切る直前、「藤田はいいな」と呟く声が聞こえてきた。




