お誘いの余韻
しばらくは、今回のコンペでの苦労話を楽しそうに話していた安田だったが、ふと、思い出したようで背筋を正した。
「さっきも少し言ったことなんですけど」と、前置きされて話が始まる。
「今回のプレゼンで上司にめちゃくちゃ褒められた時に、流れで成瀬さんの話をしたんですよ」
そう言うと、勢いをつけるかのごとくハイボールを一口ぐいと喉に流し込む。
「俺の話?」
自分の話になると思ってなかったので、やや驚き、傾けようとしていたグラスを止める。
「はい。一緒に働いてた時にどんなに助けてもらったかとか、仕事のやり方とか、今回の資料作りの方法もそうですし……」
安田が熱い期待を込めた目で、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「『そんな優秀な人材ならうちに誘ったらどうだ?』って上司が言ってくれて。
成瀬さん、もしよかったらうちの会社に来ませんか? また俺と一緒に働いてくれませんか?」
安田の真っ直ぐな視線が変わらずに向けられている。その瞳から真剣さが滲み出ているのがわかる。周りの騒がしささえ耳に入らなくなってくる。
言いたいことを言えてホッとしたのか、堰を切ったように早口で饒舌に話し出す。
「うちの会社、そっちより給料はいいし、ちゃんと頑張った分は認めてくれて、その成果も給料に反映してくれたりするんです!
成瀬さん、今の会社に愛社精神ないでしょ? それならこっちに来た方が凄く充実した日々を過ごせますよ! 俺、辞める時から決めてたんです!
転職先が良かったら成瀬さんを呼ぼうって!!」
グラスをそっとテーブルに置くと、氷がカランと音を立てて崩れた。こんなに有難い話はない。自分のことを認めてくれているのだと、喜びが湧き上がる。
だが、先日のプレゼンで肩を落としていた藤田たちの表情や、今まで一緒に働いてきた高橋たちの顔が頭をよぎる。
熱量の込められた安田の視線をゆっくり返す。
軽い深呼吸をして口を開く。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえて凄く幸せだよ。ただ、今すぐに返答は出来ないから少し時間をくれないか……」
「はい! もちろんです!
『考える』って言ってもらえただけで嬉しいので!
簡単に出せる答えでもないですしね……」
と頷きながら苦笑を見せる。
「でも、速攻で断られなくて良かった」
ポツリとこぼしながらグラスを持ち上げている。
そこからはもう、引き抜きの話は一切出なかった。お互いに今の会社の愚痴をこぼし合い、懐かしい昔話をしながら笑い合い、気づけば閉店間近になっていた。
「じゃあ成瀬さん、また連絡します!
今日は本当にありがとうございました!」
そう言って駅の方へ向かって行く安田の背を見送った。
夜風が、火照った顔に気持ちいい。ネオンの眩しく光る通りから、住宅街へと続く街灯の少ない道を歩く。歩きながら安田の言葉を何度も頭の中でリフレインさせる。
他社のイチ社員を引き抜こうなんて話が、上司の口からそう簡単に飛び出すはずがない。安田の言動から察するに、あいつは自分の勝利に浮かれるどころか、その報告の場で、どれだけ一生懸命に俺のことを話してくれたのか。きっと、自分の手柄を誇るより先に、俺への感謝や実績を熱っぽく上司に語ったに違いない。想像するだけで、安田のあの真っ直ぐな目が浮かんでくる。自分のためにそこまで熱くなってくれる後輩を持てたことが、心の底から誇らしく感じた。
もし転職すれば年収や待遇だって上がる。業務内容もさほど変わらないので、慣れるのにもそう時間はかからないだろう。しかし辞めるということは、これまで積み上げてきた人間関係をリセットすることでもある。全部捨てるのと同じだ。
いつもなら、何かあれば高橋に相談する。だが、これに関しては高橋や営業所に直接関わってくることなので、相談することが正しいとは思えない。
そこで引き留められでもすれば、答えは簡単に出るのだ。だからこそ……
「どうするかな……」
思わず口から漏れた呟きは、静かな通りに吸い込まれていった。答えは出ないまま、俺の足は自宅へと向かった。
その夜は、なかなか寝付けず、寝てもすぐ起きてを繰り返した。ようやく、眠りの深さに入りそうな時に目覚ましが鳴った。
さあ行こう。
気持ちを無理矢理に切り替え、いつも通りの時間に会社へと出社する。 営業所に入ると、いつもの見慣れた景色が広がっている。パソコンを叩く音、聞き慣れた電話の応対の声、始業時間前で忙しくなる前の神聖な空気もいつものこと。
昨日までは何とも思ってなかったその日常が、今の俺にはかけがえのないようなものに思えた。
「成瀬さ〜ん」
出勤早々、カバンも置かず藤田が情けない声を出しながら駆け寄ってくる。




