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35歳の俺が上司ざまぁしたり、大人って案外楽しいぞと気づいたりする話  作者: VANRI


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お誘いの余韻

 しばらくは、今回のコンペでの苦労話を楽しそうに話していた安田だったが、ふと、思い出したようで背筋を正した。


「さっきも少し言ったことなんですけど」と、前置きされて話が始まる。


「今回のプレゼンで上司にめちゃくちゃ褒められた時に、流れで成瀬さんの話をしたんですよ」


 そう言うと、勢いをつけるかのごとくハイボールを一口ぐいと喉に流し込む。


「俺の話?」

自分の話になると思ってなかったので、やや驚き、傾けようとしていたグラスを止める。


「はい。一緒に働いてた時にどんなに助けてもらったかとか、仕事のやり方とか、今回の資料作りの方法もそうですし……」


 安田が熱い期待を込めた目で、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。


「『そんな優秀な人材ならうちに誘ったらどうだ?』って上司が言ってくれて。

 成瀬さん、もしよかったらうちの会社に来ませんか? また俺と一緒に働いてくれませんか?」


 安田の真っ直ぐな視線が変わらずに向けられている。その瞳から真剣さが滲み出ているのがわかる。周りの騒がしささえ耳に入らなくなってくる。


 言いたいことを言えてホッとしたのか、堰を切ったように早口で饒舌に話し出す。


「うちの会社、そっちより給料はいいし、ちゃんと頑張った分は認めてくれて、その成果も給料に反映してくれたりするんです!

 成瀬さん、今の会社に愛社精神ないでしょ? それならこっちに来た方が凄く充実した日々を過ごせますよ! 俺、辞める時から決めてたんです!

 転職先が良かったら成瀬さんを呼ぼうって!!」


 グラスをそっとテーブルに置くと、氷がカランと音を立てて崩れた。こんなに有難い話はない。自分のことを認めてくれているのだと、喜びが湧き上がる。

 だが、先日のプレゼンで肩を落としていた藤田たちの表情や、今まで一緒に働いてきた高橋たちの顔が頭をよぎる。


 熱量の込められた安田の視線をゆっくり返す。

軽い深呼吸をして口を開く。


「ありがとう。そんな風に言ってもらえて凄く幸せだよ。ただ、今すぐに返答は出来ないから少し時間をくれないか……」

「はい! もちろんです!

 『考える』って言ってもらえただけで嬉しいので!

 簡単に出せる答えでもないですしね……」

と頷きながら苦笑を見せる。


「でも、速攻で断られなくて良かった」

ポツリとこぼしながらグラスを持ち上げている。


 そこからはもう、引き抜きの話は一切出なかった。お互いに今の会社の愚痴をこぼし合い、懐かしい昔話をしながら笑い合い、気づけば閉店間近になっていた。


「じゃあ成瀬さん、また連絡します!  

今日は本当にありがとうございました!」 


 そう言って駅の方へ向かって行く安田の背を見送った。


 夜風が、火照った顔に気持ちいい。ネオンの眩しく光る通りから、住宅街へと続く街灯の少ない道を歩く。歩きながら安田の言葉を何度も頭の中でリフレインさせる。

 他社のイチ社員を引き抜こうなんて話が、上司の口からそう簡単に飛び出すはずがない。安田の言動から察するに、あいつは自分の勝利に浮かれるどころか、その報告の場で、どれだけ一生懸命に俺のことを話してくれたのか。きっと、自分の手柄を誇るより先に、俺への感謝や実績を熱っぽく上司に語ったに違いない。想像するだけで、安田のあの真っ直ぐな目が浮かんでくる。自分のためにそこまで熱くなってくれる後輩を持てたことが、心の底から誇らしく感じた。


 もし転職すれば年収や待遇だって上がる。業務内容もさほど変わらないので、慣れるのにもそう時間はかからないだろう。しかし辞めるということは、これまで積み上げてきた人間関係をリセットすることでもある。全部捨てるのと同じだ。

 いつもなら、何かあれば高橋に相談する。だが、これに関しては高橋や営業所に直接関わってくることなので、相談することが正しいとは思えない。

 そこで引き留められでもすれば、答えは簡単に出るのだ。だからこそ……


「どうするかな……」

思わず口から漏れた呟きは、静かな通りに吸い込まれていった。答えは出ないまま、俺の足は自宅へと向かった。


 その夜は、なかなか寝付けず、寝てもすぐ起きてを繰り返した。ようやく、眠りの深さに入りそうな時に目覚ましが鳴った。


 さあ行こう。

 気持ちを無理矢理に切り替え、いつも通りの時間に会社へと出社する。 営業所に入ると、いつもの見慣れた景色が広がっている。パソコンを叩く音、聞き慣れた電話の応対の声、始業時間前で忙しくなる前の神聖な空気もいつものこと。 

 昨日までは何とも思ってなかったその日常が、今の俺にはかけがえのないようなものに思えた。


「成瀬さ〜ん」

出勤早々、カバンも置かず藤田が情けない声を出しながら駆け寄ってくる。




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