はじめましては突然に
土曜日。
今日は待ちに待った、佐伯さんとの休日デートの予定だった。
朝、車を運転して彼女の住むマンションの前に迎えに来たのだが、スマホに「ごめんなさい、成瀬さん! 完全に寝坊しちゃいました……! 鍵は開いてるから、部屋に上がってきて中で待ってて!」と焦った様子のメッセージが入った。
ふふ、と佐伯さんの意外なうっかりぶりに口元を緩めながら、俺は車を降りた。
車外に出てふと空を見上げると、抜けるような晴天とはいかないものの、九月の終わり特有の愚図ついた薄い雲がのんびりと漂っている。
だが、吹き込んでくる風はどこまでも心地よくて爽やかで、このまま車を走らせればどこまでも遠くへ行けそうな、そんな最高の解放感に満ちていた。
マンションのエレベーターに乗り込んで、目的の階のボタンを押していると、閉まりかけた扉の向こうから年配の女性が入ってこようとした。
俺は咄嗟に『開』ボタンを指先で押して、ドアを固定してやる。
その女性は、「あら、ありがとうございます」と上品に頭を下げながら乗り込んできた。その瞬間、お年を召した女性特有の、高級なデパートの化粧品売り場のような粉っぽい匂いが、ツンと俺の鼻腔に強く差し込んできた。
同じ密室の中、俺は目の前に立つその女性の背中に、さりげなく視線を落とす。
年齢は六十代くらいだろうか。小柄で標準的な体型、そして――とにかく、お化粧が凄かった。ただ濃いというわけではなく、ファンデーションから口紅の輪郭までミリ単位の狂いもなくバッチリと決めている、という強烈な印象だ。
服装も近所のスーパーへ行くような普段着では決してなく、上質なレースのついた上品なアンサンブルを着こなしており、これから特別な場所へお出かけするのだということがひと目で分かった。
すると、その女性がフッとこちらを不意に見上げてきたので、狭い空間でバチッと目が合ってしまった。
気まずくて目を逸らそうとした――まさにその刹那、遮るようにして、弾んだ高い声で言葉をかけられる。
「お兄さん、随分と背が高くて、スタイル良くてカッコいいねぇ!」
「あ、あはは……。それは、どうもありがとうございます……」
あまりにも突然の直球すぎるお褒めの言葉に、俺は完全に虚を突かれ、とりあえずビジネス用の愛想笑いを返すのが精一杯だった。
どうやら同じ階が目的地だったようで、エレベーターが到着すると、俺はまた『開』ボタンを親切に押して、彼女に先に下りてもらった。
女性はもう一度「どうもねぇ」と嬉しそうに頭を下げながら、あのバッチリ決めた化粧の匂いの余韻を廊下に残したまま、カツカツと小気味よく降りて行った。
少し間を置いて自分もエレベーターを降り、いつもの見慣れた廊下の角を曲がった、その時だった。
ちょうど佐伯さんの部屋のドアから、外へと出て来たあさひの姿が真っ直ぐ目に飛び込んできた。
向こうもこちらに気づいたらしく、パッとひまわりのように明るい顔を見せる。
やはり、この薄暗い廊下の中ではあいつの美しい金髪は嫌でも目立つ。窓から差し込む朝の陽の光を浴びてキラキラと眩しく輝き、すれ違えばサラサラと心地よい音がしそうな髪をなびかせながら、足取りも軽くこちらに向かって歩いて来ている。
今日の洋服は、いつものダボッとしたパーカーのヤンキースタイルではなく、黒のすっきりとしたパンツスタイルではあるものの、上が淡い色のシフォンブラウスのようになっていて、あいつの素材の良さを活かした上品さも兼ね備えていた。
……あ〜、なるほどね。これは……この後、高橋とのデートだな。
親友をメロメロにさせている完璧なお洒落っぷりに、俺は見ていて思わずニヤけてしまいそうになった。
だが、こちらに近づいてくるあさひの視線は、俺の顔ではなく、もっと下――つまり、さっきエレベーターを先に降りて、廊下の先を歩いているあの化粧の凄いお出かけ女性の背中へと、真っ直ぐに向けられていた。
あさひは歩調をピタリと止めると、大きな目をさらに丸くして驚いた顔になり、その唇からハッキリとした、そしてフロア中に響き渡るような力強い声が飛び出てきた。
「ママっ……!? なんで、ここにいんの……っ!?」
――マ、ママ……!?
え? ということは、今俺の目の前を歩いている、あの「お兄さんカッコいいねぇ!」って声をかけてきたきたお化粧バッチリの貴婦人は……
佐伯さんの、お母さま……っ!?




