戦いの果てに。
菱原社長は、今日一番の、どこまでも穏やかで優しい大人としての笑みを高橋に向かって真っ直ぐに投げかけた。
「高橋所長。……本当に、君がうちの社員だったら良かったのにと、今、私は心の底から思っているよ。
敵ではなく、同じ理想を持つ仲間として出会えていたらな……」
それは、有能すぎる若いライバルを前にして、自分自身に言い聞かせるような、どこか寂しそうで、哀愁の漂う呟きだった。
それから、社長の直々の指示によって室内に最新のノートパソコンが持ち込まれ、俺と高橋の目の前で、我が営業所から流出していたすべての顧客情報の『完全消去』の作業が行われた。
ファイルを解析したところ、秘書の小柳はデータを完全に削除こそしていなかったものの、いつでも引き出せるように別の暗号化ファイルの中に隠して移動させており、こちらの発覚を免れようと裏で往生際悪く足掻いていたのは一目瞭然だった。
だが、それらの隠しファイルも、俺たちの目の前で完全に無力化された。
さらに削除を確認したのち、他の営業所のデータが混ざっていないかも徹底的に調べてもらった。
高橋が昨夜、あの所長室で立石さんから受け取っていたという、送信相手の「IPアドレス」のメモ。立石さんの残した、その一筋縄ではいかない証拠は、確実にこのライバル社のサーバーの固有番号と一致しており、向こうのシステム部もこれ以上言い逃れできない事実だと完全に証明された。
パソコンの画面に映るその確定データを見つめながら、高橋はフッと笑うと、お茶の湯呑みを手に取りながら、冗談まじりに、だけど恐ろしいほどの本音を口にした。
「菱原社長、うちの会社の社員はね、どれだけ綺麗に踏み潰されて転んだとしても、ただじゃ絶対に泣き寝入りしないんですよ。
こうやって、自分の首が飛ぶ瞬間には、なんとしてでも地獄の底まで相手を巻き添えにして道連れにしようとする、可愛いヤンキーみたいなやつばっかりなんですよ、うちは」
身内を「可愛いヤンキー」と呼んで不敵に笑う悪友。その姿は、大企業の社長を前にしても一切物怖じしない、完璧な『組織の支配者』そのものだった。
すべての手続きと取引を終え、ビルを出て会社の前に待たせていたタクシーの座席の中に滑り込んだ瞬間、俺は、この数日間の張り詰めていた緊張から解放され、ようやく酸素をまともに肺へと送り込める気がした。
隣に座る悪友の、そのあまりにも完璧で格好よすぎる大人の立ち回りに、俺は心からのリスペクトを込めて、「高橋、お前って本当に――」と、声をかけようとした、まさにその瞬間だった。
「いやあああ、やばかったーーーーーーっ!!!
死ぬかと思ったわマジで!!!」
がばっ、と自分の頭を両手で激しく抱え込み、タクシーのシートの上でのたうち回るようにして、高橋が車中に響き渡るような大声を上げた。
あまりにも予想外すぎる、完璧な俺様キャラの崩壊っぷりに、俺は言葉を失い、顎が外れそうなほどの驚き顔で隣のあいつを完全に凝視するしかなかった。
「お、おい……? 高橋、急にどうしたんだよ……」
「どうしたじゃねえよ成瀬!! あんな確たる証拠ログ、馬鹿正直に警察なんかに持ってってみろよ!
相手の会社を叩き潰す前に、『うちの営業所はOA機器のプロのくせにセキュリティがガバガバで、一社員の小遣い稼ぎで顧客データを丸ごと抜かれました』って事実が世間に大々的に公表されちゃうだろ!?
そんなことになったら、お前、うちの会社の社会的信頼なんか一瞬で地の底に落ちるわ!!
あぶねー! 本当に紙一重であぶねーところだったわ!!」
高橋は額の汗をワイシャツの袖でガシガシと拭いながら、本気で生きた心地がしなかったという顔で、シートを強く叩いた。
「もしこのガバガバな実態が、本社のうちのあの鬼社長の耳に一ミリでもバレてみろよ! 責任を取らされてクビになるだけじゃ絶対に済まねえって!!
大した実害が出てなくてもさ、『会社のブランドイメージを著しく汚した』ってことで、俺個人に対して死ぬまで一生かかっても返せない額の巨額の損害賠償金を請求されて、文字通り人生を合法的に詰まされるんだって!!
あ〜、本当に危なかった……。うちの会社のあのクソ社長と違って、敵の社長の菱原さんが話の通じる、まともで紳士的な良い人で本当に助かったわ……。
神様仏様、菱原様だわ……」
――。
ぽかん、と口を開けたまま、俺の脳内に、さっきまでの「部下を守るためにあえて被害届を出さずに泥を被った、男気あふれる高橋所長」の神々しい映像が、ガラガラと音を立てて粉々に砕け散っていった。
こいつが警察を入れずに直接乗り込んだ本当の理由は、立石さんや藤田、他の被害を受けている社員のためだけじゃなかった。
本社にバレて、ウチの社長から死ぬまで賠償金を毟り取られるのが世界で一番怖かったという、究極に利己的な『保身』という、人間的な理由もあったのだ。
だが……。
俺は、シートの上で「あぶねー、助かったー」と本気で胸をなで下ろしている悪友の、その最高に情けなくて、最高に生々しい不完全な大人の本音を見つめているうちに、胸の奥から、どうしても堪えきれない激しい笑いが爆発するようにして込み上げてきた。
「ぶっ……、あははははは!! なんだよそれ!!
お前、ただ自分がクビになって金払うのが怖かっただけじゃねえかよ!!」
「うるせえ! 当たり前だろ! 俺のこれからのあさひちゃんとの薔薇色の人生を、本社の社長なんかに潰されてたまるかってんだよ!」
ハハハ、と二人の男の笑い声が、走り出したタクシーの狭い車内に賑やかに響き渡る。
事実が分かったからって、何一つ綺麗に丸く収まる「一件落着」になんて、大人の社会じゃなかなかない。
だけど、この情けなくて、不完全で、自分の保身のために死ぬ気で知恵を絞ってライバル社の社長の首を獲ってくるような、こんな最高に強かでクズな悪友が隣にいてくれるなら――。
俺は、スーツのポケットにある役割を終えたマスターカードにそっと指先で触れながら、窓の外を流れていく九月の眩しい街並みを、心からの笑顔で見つめ直すのだった。




