気高き王の話し合い
「そ、それが本当に我が社のサーバーにあったとしても、菱原社長は一切関係ありません!!
社長が、現場の社員にそんな不正を指示するわけが……っ」
小柳は完璧だったはずの表情を完全に崩し、血の気の引いた青白い顔を晒しながら、主を守るために慌てたように大きな声を上げた。
だが、先ほど自分の言葉を冷酷に遮られた高橋が、今度はその小柳の必死の弁明を、静かな、しかし圧倒的な声の力で完全に遮断させた。
「ええ。そうでしょうね」
高橋はまだ、すべてを見透かしたような穏やかな笑みをその唇に浮かべていた。
「御社は近年、非常に業績が良く、売上も右肩上がりに上昇しています。
倒産寸前で、綺麗事を言っていられずに少しでも売上が欲しい暗黒期ならまだしも、これほど経営が安定している時期に、トップ自らがこのような法的リスクの高い危ない橋を渡れなどと現場に指示するわけがない。
万が一これが公になれば、御社が築き上げてきた社会的な信頼は一瞬で地に落ちる。そのくらいの損得勘定、一企業の社長なら容易に想像がつくはずですからね」
「で、では……! だから、社長に直接の法的責任は……っ」
すがるように身を乗り出す小柳へ、高橋はまたフッと低く笑ってみせた。
「――あるでしょうね」
その冷徹な二文字を聞いた瞬間、小柳の顔はますます土気色に青ざめていった。自分でも本当は分かっているのだろう。これ以上どんな言い訳を並べ立てても、この完璧な包囲網の前では全てが無駄な悪掻きに過ぎないということを。
「取締役社長という立場は、社内におけるすべての人間を統括し、そして管理する地位にあるのですよ。それはつまり、一社員が起こした暴走や不手際であっても、組織のトップとして『管理監督責任』を100%負わなければならない、ということになる。
末端の人間が起こした不祥事のせいで、トカゲの尻尾切りに失敗してトップの首が容赦なく落とされるニュースなんて、この世の中じゃよくあることでしょう?
……小柳さん。この泥仕合をまだ続けますか……?」
完全に勝負は決した。
その静まり返った社長室の沈黙を破るように――突然、目の前に座る白髪の菱原社長が、低く声を上げて高らかに笑い出した。
「ハハハッ……! 小柳、もういい。お前の……いや、我々の完全な負けだ。これほど完璧に外堀を埋められていては、こちらに勝てる要素なんて最初から一つもないじゃないか」
小柳は悔しそうにギュッと奥歯を食いしばり、それ以上何も言えずに視線を床へと落とした。
菱原社長は高級な革張りソファにどっしりと座り直し、爛々と目を輝かせている高橋と視線を真っ直ぐに合わせた。
大企業のトップとしての、冷徹なビジネスパーソンの顔がそこにはあった。
「それで? 高橋所長。そちらの『本当の目的』は一体何でしょう。
……こうやって来るということは、確固たる証拠があるのでしょう? この件を今すぐ警察に持っていけば、我が社に対して巨額の賠償問題になり、社会的な信用も完全に失墜させられる。
お宅の会社にとっては、市場でライバルを一人合法的に叩き潰す大チャンスのはずだ。
それなのに、敢えて警察に被害届を届け出ず、こうして私の部屋に直接持ってきていただけた理由が……あなた方には、当然あるのですよね?」
ガラスのテーブルの上で、お茶の湯気が静かに消えていく。
隣をチラリと見ると、高橋は待ってましたとばかりに、さらに獰猛な、すべてを喰らい尽くすような最高に邪悪で格好いい笑みをその顔に浮かべていた。
「条件は、全部で三つあります」
完全に主導権を握った高橋は、革椅子の背もたれからゆっくりと身体を起こすと、ガラスのテーブルの上に両手を組み、菱原社長の目を真っ直ぐに見据えて、一文字ずつ重みを置くようにして冷徹に告げた。
隣に座る俺の胸の奥で、速まっていた鼓動が、反撃の確信へと変わっていく。
「まず一つ。御社が今回、我が営業所から不正に盗み出した最重要の顧客データを、今すぐ、この場で、私たちの目の前でサーバーから完全に消去していただくこと」
小柳秘書の手元が、ビクッと小さく強張る。データを消させると同時に、その『削除ログ』が残る瞬間までを、コピー機のプロである俺たちの目の前で完璧に証明させろという意味だ。
「二つ目。我が営業所が現在契約を結んでいる、すべての顧客リストにある企業への営業活動から、御社は今後、一切手を引くこと」
これは、相手の営業活動に対する事実上の『立ち入り禁止命令』だった。これを受け入れるということは、この地域のOA機器リース市場における最大のシェアを、我が営業所に無条件で明け渡すということに他ならない。ビジネスパーソンとして、これ以上ないほど手痛い、致命的な一撃だ。
「そして、最後の三つ目――」
高橋はここで、ふっといつもの穏やかな、だけど一切の妥協を許さない鋭い眼差しへと切り替えた。
「今回の不正は、うちの営業所だけの問題ではない可能性が高い。御社の現場の人間が、他の営業所や別部署に対しても同じ様な裏の買収を行っていないか、社長であるあなたの責任の元で徹底的に調査をしていただきたい。
その上で、もう二度とこのような卑劣な真似が行われないよう、社内のコンプライアンスとログの監視体制を極限まで強化していただきたい」
三つ目の条件が放たれた瞬間、床を見つめていた小柳秘書が、信じられないものを見るような目でガバッと高橋の顔を見上げた。
この条件は、ライバル社への嫌がらせなんかじゃない。
これ以上、自分の会社にいる真面目な社員たちが、ネットギャンブルや私生活の弱みに付け込まれて、向こうの裏の連中にいいように使い潰されるような悲劇を、絶対に繰り返させないための――高橋が『所長』として、自社の全ての仲間たちに張り巡らせた、命がけの防衛網だったのだ。
社長室の中に、九月の強い日差しが差し込む。
すべての条件を突きつけられた白髪の菱原社長は、しばらくの間、静かに目を閉じて腕を組んでいた。だが、やがてふぅ、と観念したように深い、重い息を吐き出すと、ゆっくりと目を開けて高橋の顔を見つめた。
「……なるほど。警察に被害届を出して、我が社の不祥事を世間に晒して派手に叩き潰すよりも。
……お宅の営業所の未来の利益と、そして『自分の部下たちのこれからの安全』を確実に毟り取る道を選んだわけだ。高橋所長、あなたという男は、本当に恐ろしいほど欲張りで、そして……素晴らしい上司だな」
菱原社長は、完敗を認めた苦笑いをその顔に浮かべると、隣の小柳に向かって、静かに顎をしゃくってみせた。




