高橋所長、反撃。
タクシーがライバル他社の巨大な本社ビルの前に到着するなり、高橋は支払いをスマートに済ませて車外へ飛び出し、フロントガラスの向こうの受付カウンターまで颯爽と、迷いのない足取りで歩いて行く。
俺はあわててその背中に追いつき、周囲を気にしながら思わず小声で話しかけた。
「お、おい高橋……っ! いくら何でもいきなり突撃して、社長に会えるわけがないだろ? いつも本社にいるとは限らないし、大企業のトップが急な来客なんて……」
俺の焦りっぷりが可笑しかったのだろう。高橋は歩調を緩めないまま、軽くこちらを振り返って、ニッと不敵に笑い、俺の心配を鮮やかに遮ってみせた。
「安心しろ、成瀬。――もうアポは取ってある」
……こいつ、タクシーに乗る前の、あのわずかな時間でそこまで手を回してたのかよ……
受付カウンターには、仕立ての良い制服を着た女性二人が物静かに座っていた。高橋が低い声で用件を伝えると、受付の女性は驚いたように一瞬だけ顔をこわばらせ、手元のパソコン画面でスケジュールを忙しなく確認し始めている。
その確認を待っている間、俺は人生で初めて足を踏み入れた『敵の陣地』の中に強烈な興味があり、まるで上京したばかりの田舎者のように、キョロキョロと怪しまれない程度に周囲を見渡していた。
社内は無機質で清潔な白を基調とした、天井のひどく高い、広々とした開放的なロビーだった。ガラス張りの大きな窓際には、ホテルのラウンジかと思うほど高級そうな革のソファやガラステーブルが整然と並べられており、眩しい太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
そういえば数年前、このライバル社が莫大な利益を上げて本社ビルを新しく建て替えたという話を、阿部が飲み会で羨ましそうに語っていたのを思い出した。
ロビーの奥には、最新のフラッパーゲートが何列も並んでいる。社員たちが固有のIDカードをピッとかざし、厳重なセキュリティゲートから中に入っていくシステムらしい。
「高橋様、成瀬様。大変お待たせいたしました」
不意に背後からかけられた、よく通るが、どこか機械的な声に振り返る。
そこには一人の細身の男性が、隙のない佇まいで立っていた。
年齢は俺たちと同じ三十代半ばくらいだろうか。髪はワックスで一ミリの乱れもなく七三に分けられてガチガチに固められており、上質な黒のビジネススーツの背筋をピンと完璧に伸ばしている。
そのロボットのような非の打ち所がない立ち姿を見て、自然とこちらまでつられて背筋がピンと伸びていくような、独特の圧迫感があった。
今どき、ドラマ以外でこんな完璧な七三の髪型をしてるやつ現実にいるんだな……
不謹慎にもそんなことを考えてしまう。
もし今ここで『100人の中から完璧な秘書を探し出せ!』というゲームが始まったとしたら、俺は間違いなく一秒でこの男を選び出せる自信があった。
そのくらい、全身から「有能な秘書」のオーラが漂っている。
その男性がカツカツと足音を立てて近付いてくると、流れるような無駄のない動作で名刺を差し出してきた。
眼鏡の奥の目は完全に無表情過ぎて、心の中の感情が一切読めない。声にも抑揚が全くなく、どこまでも淡々としている。
「社長秘書の、小柳と申します」
横で、高橋がいつものスマートな手つきで自分の名刺を渡していたので、俺も慌ててその真似をして、自分の名前を名乗りながらビジネスカバンから名刺を差し出した。
……いや、それにしても『社長秘書』ってもっと、タイトスカートを穿いた色気のある綺麗なお姉ちゃんじゃねえのかよ……
そんな勝手な男の下心が脆くも崩れ去り、心の中で人知れずガッカリして肩を落としたのは言うまでもなかった。
「こちらのゲスト用カードキーをお使いください。最上階の社長室へ、私がご案内いたします」
秘書の小柳から、うやうやしく差し出された、二枚の黒いカードキー。
高橋がそれをピッ、とゲートの液晶端末にかざし、しっかりとした足取りで中へ歩き出した。
俺は自分の手のひらにじわりと冷たい汗が滲むのを感じながら、静かに、深く呼吸を整えてあいつの隣へと並び、動き出した自動ドアの向こうへと潜入した。
絨毯の敷かれた最新のシースルーエレベーターに乗り込み、外の景色が小さくなっていく。ぐんぐんと、重力に抗って最上階へ向けて上昇していく程に、俺の胸の奥の鼓動がドクドクと自分でもうるさいくらいに速くなっていくのが分かった。
――チン。
やがて、静かな電子音が鳴って重い金属の扉が開いた。
完全に防音された、静まり返る廊下を歩き、曲がり角を二回曲がったその突き当たりに、それまでのフロアのドアとは明らかに格の違う、重厚な一枚板で作られた、見るからに高級そうな、おぞましい風格の扉が現れた。
おそらく、ここがこの要塞ビルの心臓部であり、すべてを統括する社長室だろう。
小柳が細い指先で、コツ、コツ、コツと丁寧に三回ドアをノックすると、中から「……入れ」と、低く、威厳に満ちた大人の男の声が返ってきた。
その声を鼓膜に捉えた瞬間、俺の心臓はもう口から飛び出そうなくらいに激しくドスドスと脈打ち、スーツの袖の奥で、両手の手汗をびっしりとかいているのが自分でもハッキリと分かった。
限界だ。胃のあたりがストレスでキリキリと痛む。 たまらず、俺はすがるようにして隣の高橋に目をやった。
――だが、あいつは違った。
高橋の顔には、緊張や恐怖なんて微塵も存在していなかった。
むしろ、これから始まるライバル社のトップとの『命がけの交渉』を前にして、心底楽しそうに、あいつの目は獰猛な狩人のように、ギラギラと輝いていたのだ。
高橋……お前、本当に恐ろしい男だな……
小柳がゆっくりと、重厚な扉を開け放つ。
その空間の向こうで、俺たちを待ち受けているライバル他社のトップの顔が、ついに白日の下に晒されようとしていた。




