事後処理
翌日、出勤するなり高橋から「ちょっと所長室へ来てくれ」と声をかけられた。
昨日のあの薄暗いフロアで起きた最悪の白状、その後の話し合いの結末についての話だということは、言われるまでもなくすぐ察しがついた。
俺はビジネス鞄を自分のデスクへ適当に放り出すと、重い足取りのまま所長室へと向かった。
ドアを開けて所長室に入った瞬間、最初に目に入った高橋の姿は、俺の勝手な思い込みなんかではなく、明らかに昨日よりも生気を失って、酷くやつれて見えた。
一晩中、今回の件と正面から向き合って、所長としての責任の狭間で戦っていたのだろう。
高橋はいつもの革張りの椅子に深く腰掛け、手元で何やら複雑な書類を触っていたが、俺が部屋に入るとその手をピタリと止め、ゆっくりと顔を上げた。
入ってきた俺と瞳が目が合うなり、高橋の強張っていた唇の端が、フッといつもの笑みを浮かべた。
「成瀬。……お前も昨日は、まともに寝れてないみたいだな」
「お互い様だろ。鏡で自分の顔を見てみろよ、ひどい顔だぞ」
そのいつものトーンに誘われるように、俺の口元からも自嘲気味な笑みが自然と溢れる。だが、やはり胸の奥のモヤモヤとした本題をこれ以上抑えつけることなんて出来ず、俺はすぐに低い声で本質を口にした。
「……昨日、あの後どうなったんだ? 立石さんは、何て言ってた?」
話しながら、高橋の重厚なデスクの前までゆっくりと移動し、物理的な距離をぐっと詰めた。
高橋は手元の書類へともう一度視線を落としながら、静かに、重い口を開いた。
「立石さんには……今日付けで、この会社を辞めてもらうことにしたよ」
「それは……クビ……、懲戒解雇にするってことか?」
俺の問いに対して、高橋は目を伏せたまま、小さく、軽く首を横に振った。
「いや、違う。懲戒になるとさ、次の再就職のときに履歴書に傷が残って、完全に印象が悪くなるだろ。
だから……今回は被害届も出さないし、懲戒解雇にもしない。表向きは一身上の都合による『自主退職』にしてもらうことにしたんだ」
あいつの声は、どこまでも低く、そして震えているような気がした。
会社を、俺たちを、自分の遊ぶ金のために裏切った男。警察に突き出して一発で逮捕されてもおかしくない大罪を犯した立石さんを、高橋は、所長としての職務を裏切ってでも、あえて身内の生ぬるい『裏のケジメ』だけでひっそりと逃がしてやる道を選んだのだ。
それが、立石さんに裏切られてなお、かつて共に汗を流した仲間への、そして誰よりも立石さんを慕っていた後輩の藤田の未来を守るための、高橋の血を吐くような「大人の覚悟」なのだと分かった瞬間、俺の胸の奥は言葉にならない熱いものでいっぱいになった。
高橋が突然、椅子をガタッと大きく床に響かせて勢いよく立ち上がった。
あいつの顔からは、さっきまでのやつれた影が嘘のように消え去り、飢えた獣のような鋭い光がその瞳に宿っていた。
「さあ、成瀬。行くぞ」
「え……? 行くって、急にどこに行くんだよ?」
「決まってるだろ。――相手の会社の本社にだよ」
高橋が唇の端を吊り上げてにんまりと不敵に微笑む。長年一緒にいる俺ですら、思わず背筋がゾクッと凍りつくほどに恐ろしい、冷徹な殺気を孕んだ笑顔だった。
高橋はそれ以上何も語らず、真っ直ぐ前を見据えたまま、迷いのない足取りで所長室を飛び出していく。俺は慌てて自分のデスクから上着を引っ掴むと、遅れを取らないようその背中を必死に追いかけた。
会社の前に滑り込んできたタクシーに二人で飛び乗り、ドアが閉まった瞬間、ようやく高橋が、前方のフロントガラスを見つめたまま重い口を開いた。
「相手の会社の、社長に直接会いに行く」
「は……? 営業所の所長やエリアマネージャーとかじゃなく、しゃ……社長に直談判に行くのか!?」
あまりのスケールの大きさに、俺の声は狭い車内で完全に裏返った。高橋はシートに深く背中を預け、急に険しい顔をして一瞬だけ言葉を止めた。
だが、流れる街の景色を睨みつけながら、静かに、しかし地を這うような低い声で話し出す。
「この情報漏洩は、おそらく立石さん個人だけの問題じゃない。組織的に、うちの顧客データが常態化して抜かれている可能性がある。
この被害はうちの営業所だけに留まらず、本社のメインサーバーごと狙われているかもしれない。もしそうなると……」
高橋は拳をきつく握りしめ、言葉を震わせた。
「あの真面目だった立石さんのように、ギャンブルの弱みを握られて、向こうの裏の連中にいいように利用されているうちの社員が、他部署にもまだいるかもしれないってことだ」
ガタゴトと揺れるタクシーのエンジンの重低音の中、俺は高橋のその表情と声色から、ハッと気づかされた。
こいつは。この男は、会社を裏切った立石さんのことを、単なる憎むべき「加害者」として断罪しているのではない。あの真面目さにつけ込まれ、欲望の罠にハメられて使い潰された「被害者」としても、誰よりも深く見ていたのだ。
この凄まじい眼光は、裏切りへの落胆なんかじゃない。
自分の大切な部下を泥沼に引きずり込み、会社の誇りを踏みにじった相手方に対する、一人の上司としての、底なしの怒りそのものだったのだ。




