真実を知ったからって一件落着とはいかない
「……藤田は、このこと……全部、知ってるんですか?」
俺はもう、自分の知っているあの優しい立石さんではなく、名前だけが同じだけの全く見知らぬ他人のように思えた。その人に向けて、震える声で最後の疑問を投げかけた。
すると、さっきまで俺の心を冷酷に踏みにじっていた立石さんの張り付いた仮面から、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、不敵な余裕が綺麗に消え去ったように見えた。
「……知りませんよ、あいつは何も。これは、俺が誰にも言わずに独りだけでやったことだし、あいつには一ミリも関係ない」
立石さんの語気が、わずかに強くなる。
――大切な後輩の藤田だけは、絶対にこの泥沼に巻き込みたくないんだろう。
俺はこの目の奥の揺れを見て、瞬時にそう直感した。どれだけ私生活がギャンブルの欲に塗れて会社を裏切っていたとしても、大学の頃からひどい言葉に傷ついてきたあのかわいい後輩のことだけは、親友の彼氏という枠を超えて、本気で大切に想い、守りたかったのだろう。
立石さん側だけではない。藤田の話す様子からも、藤田が立石さんのことを本当に尊敬し、信頼していることが伝わってきていた。
その僅かに残された本物の人間味に、胸の奥がキリキリと痛む。
「そう、なんですね……」
俺たちの間に、しばし息をすることすら躊躇われるような、沈黙の静かな時間が流れた。
誰もいない日曜日のオフィス。冷房の入っていない重苦しい空気のなかで、換気のために回っているエアコンのファンだけが、ゴォォォと不気味な重低音を響かせてフロアの壁を震わせている。
遮光ブラインドの隙間から、夕暮れの細い日の光が、俺たちの足元を冷たく虚しく照らし出していた。
俺は、その心臓を圧迫するような静けさを自ら切り裂くように、喉の奥から本音の声を絞り出した。
「俺……立石さんと、もっと、仲良くなりたかったのに……」
藤田の件で、本当の優しさを知って、笑顔で話せるようになって、今度みんなで飲むのをあんなに楽しみにしていたのに。
立石さんは一瞬だけ目を丸くすると、すぐに鼻でフッと笑った。
「フ……なんですか、成瀬さん。その、子供みたいな、青臭いセリフは……」
立石さんは、皮肉を吐き捨てようとしたが、そこまで言うと、ハッと何かの強烈な気配に気づき、言葉を途切れさせて通路の暗がりの方へと鋭い目をやった。
俺もその視線に合わせてそっちを振り返ると――そこには、いつの間にか高橋が立っていた。
高橋は、いつもの完璧な俺様の仮面を完全に失くし、泣き出しそうなほどの、見たこともない悲痛な表情をその顔に浮かべていた。
「もうやめてください、立石さん……」
高橋の、胸をかきむしるような悲しみを帯びた重い言葉に、立石さんはいつものカタブツな主任のトーンを無理やり取り繕って答える。
「やめるも何も……所長。俺は今、成瀬さんとただ話をしているだけで……」
「いや、違う!」
高橋は一歩、大股にこちらへと踏み出し、俺の身体を自分の背中に庇うようにして、立石さんの前に立ちはだかった。あいつの背中が、怒りと悲しみで小さく見える。
「いや、もうこれ以上……こいつを……成瀬を、傷つけるのはやめてください」
あいつは、所長として不正を断罪しに来たのではなかった。
人を信じようとして、仲間の無実を必死に祈りながら、独りで孤独に戦って傷つききった俺の心を守るために――あいつは、盾になるためにここに現れたのだろう。
立石さんは、俺の前に立ちはだかる高橋の広い背中越しの俺に冷たい視線を向けたまま、静かに口をつぐんだ。立石さんの放っていたあの禍々しい迫力は、高橋の登場によって完璧に霧散していた。
高橋は一切の感情を排した、所長としての冷徹な声で言葉を続ける。
「立石さん。……所長室で、少し二人だけで話しましょう。
成瀬、お前はもう自分のカバンを持って、このまま家に帰っていいからな」
立石さんは何一つ抵抗することもなく、ただ諦めたように深く息を吐くと、吸い込まれるようにして静かに所長室のドアの向こうへと入って行った。
カチャリと、重いドアが閉まるのを見届けた高橋が、ゆっくりとこちらを振り返り、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「成瀬。……本当に、すまなかった。お前に、こんなに嫌な思いをさせてしまったな。こんなことになるなら、俺も最初からお前に丸投げしないで、一緒にログを調べればよかったな……」
「いや……大丈夫だよ。高橋、俺は全然……」
「大丈夫じゃねえだろ!!」
高橋が、言葉を遮るようにして、突然俺の両肩へと力強く、痛いほどの熱量で両手を置いた。
驚いてガバッと顔を上げると、そこには、いつもの飄々とした余裕なんて跡形もなく消え去った、今にも大粒の涙をこぼしそうなほど顔を歪めた高橋の、剥き出しの瞳と視線が正面からカチリとぶつかった。
「……そんな、今にも消えそうな辛そうな顔になるまで、お前をひとりで苦しませたくなかったのに……っ」
その手のひらから、人間の熱い体温が、俺の強張っていた両肩へとじんわりと伝わってくる。
この数週間、人を疑う孤独な闇の中で、俺の心は自分が思っている以上に、とっくに限界を迎えてズタズタに傷ついていたのだ。
高橋は、俺の顔に張り付いていたポーカーフェイスの『仮面』を、一瞬で見抜いて、男の友情として烈しく怒り、そして泣きそうになってくれていた。
立石さんの裏切りという最悪な事実は何一つ変わらない。だが、俺の肩を掴む親友のこの熱い手のひらのぬくもりを肌に感じた瞬間、俺の胸の奥で凍りついていた孤独の氷は、音を立てて優しく溶け出していくのがわかった。




