【50話】賑やかな一日
朝のうちは、いつもと変わらない静かな空気だった。
「おはようございます」
「おはよう、ルゥ」
ルゥが店に入ってきて、いつもの席についた。
少し遅れて、裏口からミアも顔を出す。
「おはよう、ミア」
「うん」
特に何があるわけでもない、いつも通りの一日。
開店してからも、お客さんの足はほとんどなかった。
肌寒くなってきたせいか、近頃はこうして静かな日も増えている。
ルゥは本棚から本を取り出して、カウンターの隅で静かに読み始めた。
ミアはその近くで、窓の外をぼんやりと眺めている。
紅茶を淹れながら、私はそんな二人の様子を見て、なんだか落ち着いた気持ちになった。
賑やかな日もいいけれど、こういう静かな時間も、悪くない。
そんな穏やかな空気が、突然破られた。
「姉さん!」
店の外から、聞いたこともない声が響いた。
ルゥが、本を持ったまま固まる。
「……リオ?」
その名前を、私は初めて聞いた。
ルゥの口から、家族の話を聞いたことは、これまで一度もなかった。
聞いたことがないというより、ルゥ自身がそういう話を全くしない人だった。
「姉さん、やっぱり!」
扉が開いて、勢いよく顔を出したのは、ルゥと同じ色の瞳をした、明るい女の子だった。
「リオ……どうして、こんな所に」
ルゥは本を閉じて立ち上がりながら、まだ驚きが抜けない様子で言った。
「近くを通ったら、姉さんの匂いがしたので! まさかこんな所にいるなんて、思いませんでした!」
リオは満面の笑みでそう言った。
手紙のやり取りも、事前の連絡も、何もなかったらしい。
本当に、たまたま近くを通りかかって、匂いに気づいただけ。
私はカウンターの中から、その様子をただ見ているしかなかった。
ルゥに妹がいることも、今初めて知った。
家族の話を一度もしてこなかったルゥが、こんな反応を見せるのは珍しい。
リオは店の中を見回して、それから私に気づいた。
「あ……すみません、姉さんの知り合いの方ですか?」
「あ、はい。リゼルです。この店で……」
「初めまして! 姉さんの妹のリオです!」
元気よく頭を下げられて、私はとりあえず頭を下げ返す。
ルゥが私のことを話していなかったのと同じように、リオのことも私は何も知らなかった。
お互い、初めて顔を合わせる相手。
それでも、リオの方は気にする様子もなく、にこにこと笑っている。
それから、リオは店の中をもう一度見回して、不思議そうに聞いた。
「姉さん、ここ、よく来るんですか?」
「……うん。たまに」
「珍しいですね。姉さんがお店に来るなんて」
「……そう?」
「はい。姉さん、基本的に人と関わるの、苦手じゃないですか。だから、お店とか、あまり寄り付かないと思ってたので」
リオの言葉に、ルゥは少し困ったような顔をした。
それから、ぽつりと、
「苦手じゃない……面倒くさいだけ。それに、ここは別」
「別?」
「居心地が、いいので」
短い言葉だったけれど、それを聞いて、リオは嬉しそうに笑った。
「そうなんですね! いい場所が見つかって良かったです」
「……うるさい」
ルゥはそう言って、少し顔を逸らした。
私は、何となく、ルゥがこの店に通ってくれている理由を、初めてちゃんと知った気がした。
普段は人との関わりを避けて、自分のことは全部自分でやってきたんだろうな、と思う。
編み物や手芸が得意なのも、力仕事をできるのに自分から進んでやらないのも、誰かに頼るより、自分でやる方が楽だったからなのかもしれない。
そうやって生きてきた人が、わざわざ通ってくれる場所がここなんだと思うと、なんだか少し誇らしいような、嬉しいような気持ちになった。
詳しい事情を聞き出すつもりはない。
それでも、こうして自然に見えてしまった、ルゥの新しい一面に、私は少しだけ温かい気持ちになった。
それから、リオは思い出したように、ぱっと顔を上げた。
「そうだ! ちょっと待ってください!」
「え?」
リオは店の外に飛び出していって、すぐに戻ってきた。
「姉さんがよく来るお店みたいなので、これ、あげます! さっき狩ったばかりなので、新鮮ですよ!」
「えっ……」
そう言って指したのは、店の外に置いてあった、見たこともない大きさの獣だった。
「な、何これ……?」
「はい! 姉さんがお世話になってるなら、私からもお礼です!」
その場で決めたとは思えないくらい、堂々とした態度だった。
私とルゥは、思わず顔を見合わせる。
外に出てみると、戸口を通るのも難しそうな大きさの獣が横たわっていた。
体長は、私の身長の三倍近くあるだろうか。
太い四肢と、見るからに分厚い毛皮。
「……大きい」
それしか言葉が出てこなかった。
「狩りで獲りました! 大きいでしょう!」
リオは誇らしげに、その横に立って笑っている。
獣の大きさに比べると、リオの体は小さく見えるくらいなのに、ここまで一人で運んできたらしい。
「これ、リオさんが運んだんですか……?」
「はい! そうですけど?」
あっさりとそう言われて、私は思わずルゥの方を見た。
ルゥは慣れた様子で、それでも少し呆れたように、
「ドラゴンは力が強いので……」
「うん、それは聞いてたけど……」
実際に目の前にすると、想像以上だった。
「あの、これ、お店の中には……」
「入らないですよね」
ルゥが冷静に言う。
戸口の大きさを見れば、誰でもわかることだった。
「あ、ありがとうございます……でも、これ、捌くのは……解体までお願いしてもいい?」
聞くと、リオは少し首をかしげて、
「捌くのは得意じゃないんです……狩るのは得意なんですけど」
「……そっか」
得意分野がはっきり分かれているらしい。
私自身も、こんな大きな獣を捌いた経験はない。
普段使うのは、もう少し小さい肉だ。
ひとまず、店の裏手の涼しい場所に布をかけて置かせてもらうことにした。
それでも、その場所に運ぶだけで一苦労だった。
私とルゥが手を貸そうとしても、リオはあっさりと一人で抱え上げてしまう。
「平気です!」
そう言って、軽々と運んでいく姿に、私はもう驚くしかなかった。
落ち着いたところで、リオは改めてルゥの方を向いた。
「姉さん、髪伸びましたか?」
「……伸びた」
「似合ってます!」
「……そう」
ぶっきらぼうな返事だけれど、ルゥの耳が少し赤くなっているのが見えた。
普段のルゥは、誰に対してもいつも丁寧で、言葉を崩すことはない。
それなのに、妹の前だと、こんなに短い返事しかできなくなるらしい。
新しい発見だった。
店の中に戻ると、カウンターの隅で、その様子をミアがじっと見ていた。
ルゥの素っ気ない返事と、リオの元気いっぱいな様子のギャップが、よほど面白かったらしい。
「……ふふ」
小さく、それでも確かに、ミアが笑った。
珍しい光景に、私もつい笑ってしまう。
「ミア、笑ってる」
「うん」
ミアは短く答えて、また姉妹の様子を眺め始めた。
リオはそんなミアにも気づいて、
「あなたは……?」
「ミア」
「よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げるリオに、ミアは小さく頷いて応えた。
しばらく賑やかなやり取りが続いて、それからリオは、
「あ、そろそろ行かないと。また寄ります!」
そう言って、来た時と同じくらいの勢いで店を出ていった。
静かになった店の中、私はルゥの方を見た。
「ルゥ、嬉しそうだったね」
「……そんなこと、ありません」
「耳、赤かったよ」
「……それは、その」
ルゥは珍しく言葉を詰まらせて、それから小さく、
「……久しぶりだったので」
とだけ言った。
照れているのに、素直に喜べない。
そういうところも含めて、ルゥらしいな、と思う。
裏手に置いた大きな獣のことを考えながら、私は今日も、賑やかで、でもどこか穏やかな一日を終えようとしていた。




