【49話】秋の足音
朝、まだ誰も来ていない店の中で、私は一人、開店準備を始めていた。
カウンターを拭いて、椅子を整えて、それから窓を少し開ける。
入ってきた空気は、はっきりと秋のものだった。
「……今日も冷えるな」
そう呟きながら、いつもの手順で紅茶の葉を準備する。
ふと、棚の奥にしまってあるノートに目がいった。
メニュー表のメモだ。
何となく手に取って、開いてみる。
一番古いページには、開店当初のメニューが書かれていた。
紅茶。
パンケーキ。
焼き菓子(日替わり)。
それだけ。
たったそれだけしか書かれていない。
「……こんなに少なかったんだ」
正直、自分で書いたものなのに、少し驚いてしまった。
当時は、それで十分だと思っていた。
というより、それ以上を考える余裕がなかった、というのが正しいのかもしれない。
人と関わること自体に身構えていたから、
「あれもこれも作って、お客さんが増えたらどうしよう」
そんな風に、無意識に増えすぎないようにしていた気もする。
……今思うと、増える前提で心配するあたり、随分自信があったなと思う。
実際は、増えるどころか閑古鳥が鳴いていた時期もあったというのに。
当時の自分に、「先にそんな心配しなくていいよ」
と言ってあげたい気持ちになる。
今のページをめくると、ずいぶん賑やかになっている。
クッキー。
ケーキ。
夏限定のアイスキャンディー。
冷たいフルーツティー。
そうめんの試作。
香辛料煮込み。
その他、気まぐれで出していた料理や紅茶。
「いつの間に、こんなに増えたんだろう」
特別、頑張って増やしたという感覚はない。
その時々で、
「これ作ってみようかな」
「これ、お客さんに食べてもらいたいな」
そう思ったことを、ひとつずつ試してきただけだ。
大きな決断をした記憶もないし、何かが劇的に変わった瞬間があったわけでもない。
それでも、こうして並べてみると、確かにずいぶん変わった。
「私、変わったんだな」
誰に向けてでもなく、そう呟いてみる。
ノートを閉じて、私は窓の外を見た。
木々の色が、少しずつ秋らしくなっている。
「……秋らしいメニュー、何か作ろうかな」
そう思いついたのは、ごく自然な流れだった。
夏にアイスキャンディーを出したように、季節に合わせて何かひとつ作ってみる。
それくらいの軽さで、私は考え始める。
紅茶に、何か秋らしい香りを合わせるのもいいかもしれない。
栗とか、林檎とか。
焼き菓子も、もう少し秋らしい味に変えてみようか。
「とりあえず、試しに作ってみよう」
決めるというより、試してみる、くらいの気持ちで十分だった。
以前の私なら、
「失敗したらどうしよう」
「お客さんに変だと思われたらどうしよう」
そんなことを先に考えてしまっていたと思う。
でも今は、
「とりあえずやってみて、合わなかったら調整すればいい」
そう思えるようになっている。
これも、特別意識して変えたわけじゃない。
気づいたら、そう考えるようになっていた。
私は厨房に立って、何を使おうか棚を見渡す。
栗はまだ手に入っていないけれど、林檎なら少し前に行商人が置いていってくれた分がある。
「林檎の焼き菓子、試してみようかな」
そう決めて、私は材料を取り出し始めた。
特別なことをするわけじゃない。
ただ、季節に合わせて、少しだけ新しいことを試す。
それくらいの変化が、今の店にも、今の私にも、ちょうどいい。
開店の時間になって、扉に吊るしてある鐘が小さく鳴った。
「おはようございます」
入ってきたのは、顔馴染みのお客さんだった。
朝の散歩がてら、よくこの時間に寄ってくれる人だ。
「おはようございます。今日は冷えますね」
「ほんと、すっかり秋ですね。……あ、何かいい匂いがする」
「林檎の焼き菓子、今ちょうど試作してて。よかったら味見していきますか?」
「いいんですか? じゃあ、紅茶と一緒に」
「はい、少々お待ちください」
カウンターの奥で紅茶を準備しながら、私はさっき開いていたメニューのことを思い出していた。
最初は紅茶とパンケーキと焼き菓子、それだけだった店。
今は、お客さんの一言から新しいものが生まれることもある。
「お待たせしました」
焼き上がったばかりの林檎の焼き菓子と紅茶を出すと、お客さんは早速一口食べて、
「これ、秋っぽくていいですね。林檎の香りが優しい」
「よかった。まだ味、調整中なんですけど」
「十分美味しいですよ」
そう言ってもらえて、少しほっとする。
こんな小さなやり取りの積み重ねが、今の店を作ってきたんだろうな、と思う。
特別なことは何もない。
それでも、こうして誰かと季節の変化を分け合えることが、今の私にはちゃんと嬉しいことだった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。また来てくださいね」
お客さんを見送って、私は静かに次のお客さんを待つ。
秋の一日が、また穏やかに始まった。




