【36話】積み重なったもの
朝から雪だった。
細かい雪が静かに降り続いていて、窓の外は白くぼやけている。
私は店の扉に札を掛けた。
「本日休業」
冬季休業と言いつつも時々店は開けていたけれど、今日は最初から休むと決めていた。
やることがあったからだ。
「……片付け、するか」
誰もいない店の中で呟く。
返事はない。
でも、その静けさも悪くなかった。
私は袖をまくって、棚の整理を始める。
最初に手をつけたのは食器棚だった。
少し欠けたカップ。
使い込んだ皿。
収穫祭のあとに買った厚手のカップ。
並べ直してみると、思っていたより増えている。
最初は、本当に最低限しかなかった。
この店で暮らしていけるのかも分からなくて、とにかく必要なものだけ揃えていた頃。
今は違う。
客用の毛布もあるし、クッションもある。
季節ごとの食器まで増えた。
私はカップを拭きながら、小さく息を吐く。
「……増えたなぁ」
物だけじゃない。
そんな気がした。
次は厨房。
香辛料の瓶を並べ直す。
最初は名前も分からないものばかりだったのに、今では香りだけで大体分かる。
空になった瓶も増えていた。
収穫祭の時は、本当にずっと煮込んでいた気がする。
鍋が空になるたび慌てて戻って、また仕込んで。
忙しかったはずなのに、不思議と嫌な記憶じゃない。
むしろ、鮮明だった。
私は棚の奥から、小さな紙束を見つける。
古いメモ。
“甘い、冷たい”
“たぶん凍らせる”
“砂糖もっと”
“失敗”
……相変わらず雑。
少し笑ってから、椅子に座る。
前の世界の記憶を頼りに書いていたメモだ。
でも今は、読み返しても思い出せない部分が増えていた。
どんな景色だったっけ。
何を見ながら食べていたんだっけ。
どんな味だったっけ。
思い出そうとしても、霧がかかったみたいにぼやける。
少し寂しい。
前の世界で、私はちゃんと生きていたはずなのに。
その輪郭が少しずつ薄れていく。
窓の外を見る。
雪はまだ降っていた。
静かな白。
私はぼんやりとメモをめくる。
その途中で、別の紙が落ちた。
収穫祭の時の売上メモだった。
見た瞬間、思い出す。
行列。
香辛料の匂い。
空っぽになった鍋。
焼菓子を抱えて走る子ども。
ミアの「いい」。
ルゥの穏やかな声。
そっちは、驚くくらい鮮明だった。
私は少しだけ目を瞬かせる。
……ああ。
思い出せなくなっているものもある。
でもその代わりみたいに、この世界での記憶が増えている。
春は、小さな庭の土をいじっていた。
何が育つかも分からないまま、とりあえず植えてみて、芽が出ただけで嬉しくなった。
夏は、暑さに負けそうになりながらアイスを作った。
高い機械を買う時は緊張したけれど、冷たい甘味を食べた子どもたちの顔はちゃんと覚えている。
秋は、シチューを煮込んだ。
忙しくて、でも賑やかだった。
そして今は冬。
毛布を置いた静かな店で、こうして一年を振り返っている。
ちゃんと、この店で暮らしていた。
私は立ち上がって、棚の奥にあった古いカップを手に取る。
最初の頃から使っていたものだ。
縁が少し欠けている。
捨てるか、少し迷う。
新しいものは増えたし、使いやすいカップもある。
でも。
「……まだ使えるし」
私は結局、それを棚の端へ戻した。
たぶん、使えるからだけじゃない。
そのまま店の床を掃き、布を替え、棚を拭く。
少しずつ片付いていく店は、前より綺麗になっているのに、不思議とちゃんと“暮らした跡”が残っていた。
夕方頃には、外の雪も少し弱くなっていた。
私は椅子に座って、静かになった店を見回す。
最初は、ここでどう生きるかばかり考えていた。
でも今は違う。
ここで誰と過ごして、
何を作って、
どんな季節を迎えたかを思い出している。
前の世界を忘れていくのは、少し寂しい。
でも、それだけじゃない。
この世界でも、ちゃんと思い出が増えている。
だったらきっと、これからも大丈夫なんだと思う。
春も。
夏も。
秋も。
冬も。
私は新しく敷いた棚布を指先で整えながら、小さく笑った。
「……これから、だよね」
静かな店に、自分の声だけが小さく響いた。




