【35話】誰かの記憶
二度目の冬を前に、店も暮らしも少し整った頃。
前の冬より、寒さに追われる感じは薄い。
毛布のある席。
新しくした鍋。
少し増えた蓄え。
生きるのに必死なだけじゃなくなった今だから、ふと手を止めて、知らないものに目を向けられる。
朝。
少し冷えるけれど、去年ほど身構えなくていい。
私は新しい手袋をはめて店を開ける。
窓際の毛布も、もう自然にそこにある。
ミアは定位置みたいにその席にいるし、ルゥは珍しく少し古びた本を抱えている。
「古書市で見つけました。料理の記録のようです」
料理本。
別にそこまで珍しくないはずなのに、なぜか少し気になった。
ページをめくる。
知らない名前。
でも、並んでいるものに妙な既視感がある。
“卵”
“乳”
“甘味”
“蒸す”
私は思わず、自分のメモ帳を開く。
前の記憶が薄れる前にと、曖昧な料理を書き留めていた雑なメモ。
そこにあるものと、本の内容が少し似ていた。
名前は違う。
材料も配分も微妙に違う。
でも、
「……似てる」
ルゥが覗き込む。
「知っているものですか?」
私は少し迷ってから首を横に振る。
「ちゃんとは、覚えてない。でも……たぶん、見たことがある」
……前の世界で。
そう言い切れるほど、もう鮮明じゃない。
けれど、私以外にも、
似たものを作ろうとした誰かがいたのかもしれない。
同じように、曖昧な記憶を頼りに。
そう思った。
確かじゃない。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
本とメモを見比べながら、
卵を混ぜる。
乳を温める。
甘味を足す。
「……こんな感じ、だったかな」
正確じゃなくていい。
いつも通り。
思い出すというより、今の私が作れる形にする。
蒸気の立つ鍋に並べて、待つ。
ミアは近くでじっと見ている。
「甘い匂い」
「まだ途中」
「でも、いい」
早い。
完成
出来上がったそれは、つるりとしていて、少し揺れる。
「プリン」
レシピ本に書いていた名前。
その響きが、なんだか少しだけ懐かしい。
食べる
まずは私。
ひとくち。
やわらかい。
甘い。
卵と乳のやさしい味。
……ああ。
何かを思い出しそうで、でも、そこまでは届かない。
それでも、十分だった。
「……おいしい」
ミアもひとくち。
少し止まって、
「……好き」
すごく分かりやすい。
ルゥも丁寧に味わってから、
「不思議ですね。やさしいのに、印象に残ります」
その言葉に、私は少し笑った。
夜。
店じまいのあと、古い本をもう一度閉じる。
誰が書いたのかは分からない。
どこから来たのかも。
私みたいに、別のどこかを知っていた人かもしれないし、
ただの偶然かもしれない。
それでも。
こうして残って、こうして今また作れるなら、
少しだけ、遠い場所にいた誰かと、同じ台所に立ったみたいな気がした。
窓の外、冬が少しずつ近づいてくる。
私はメモ帳に、新しく書き足す。
『プリン』
前より少し整った字で。
今度は、忘れても大丈夫なように。




