【17話】雨の日の灯り
朝、目が覚めたときから、雨の音がしていた。
屋根を叩く音。
窓を打つ音。
ざあざあ、と絶え間なく降り続くそれは、春のやわらかな雨というより、まるで季節を少しだけ間違えたみたいな冷たい雨だった。
「……これは、すごいですね」
カーテンを開ける。
いつもなら庭先にやわらかな光が落ちている時間なのに、今日は空が暗い。
庭の花も、小さな葉も、雨粒に打たれて静かに揺れていた。
店を開けるか、少しだけ迷った。
こんな天気の日に、わざわざ来る人なんてほとんどいないだろう。
庭先の席はもちろん使えないし、街はずれのこの場所まで足を運ぶには、今日は少し条件が悪すぎる。
でも。
「……まあ、とりあえず」
私はいつも通り、店を開けた。
お湯を沸かす。
カップを並べる。
窓を少し拭く。
やること自体は、いつもと同じ。
でも、雨音が全部を少しだけ違う日に変えていた。
——からん。
……とは、鳴らない。
知っていましたけど。
午前中。
誰も来ない。
私はカウンターを拭いて、棚を整えて、少しだけ本を読んで。
そのたびに、ちらりと扉を見る。
鳴らない。
「……ですよね」
少しだけ可笑しくなって、私はひとりで笑った。
こういうとき、前世の私はどうしていただろう。
たぶん。
“暇”に少し焦っていた。
何かしなきゃ。
止まっているのはよくない。
時間を無駄にしている気がする。
でも今は。
窓の外の大雨を見ながら思う。
「来ないなら、来ない日です」
昼が近づくころには、寒さまで増してきた。
春のはずなのに、まるで冬が少しだけ戻ってきたみたいだ。
指先が、少し冷たい。
「……これは、さすがに」
私は扉の札を裏返した。
『本日終了』
早じまい。
前の私なら、少しもったいないと思ったかもしれない。
でも今は。
「風邪をひくよりいいですし」
誰に言い訳するでもなく、そう呟く。
店を閉めると、急に“やること”が消える。
けれど、それが嫌じゃなかった。
私は暖炉の前にしゃがみこんだ。
薪を並べて、火をつける。
最初は小さく。
それから、ぱち、と火が育つ。
赤い灯り。
じんわり広がる熱。
「……あったかい」
思わず、ほっと息が漏れる。
雨音はまだ激しい。
でも、暖炉の前だけは別世界みたいだった。
寒さも、暗さも、少し遠い。
私は温かいミルクを用意して、椅子を暖炉の近くへ引き寄せる。
「さて」
そこで思い出した。
棚の端にしまっていた、編み針とかご。
ルゥに教えてもらってから、少しずつ。
本当に少しずつ。
暇な日に触るようになったもの。
最初は、ひどかった。
編み目はばらばら。
変なところで増える。
何を目指していたのか、途中で自分でもわからなくなる。
「……懐かしいですね」
あの頃の不格好な手袋もどきは、まだしまってある。
たぶん、今見ると少し笑ってしまう。
でも。
毛糸を指にかけて、ひと目ずつ編み始める。
雨音。
火の音。
編み針の小さな動き。
ただ、それだけ。
急かされない。
誰にも評価されない。
上手じゃなくてもいい。
「……あ」
少し編んだところで、私は気づく。
「前より、揃ってます」
ちゃんと、形になっている。
前みたいに、どこかで突然おかしくなったりしていない。
もちろん、まだ完璧じゃない。
でも。
「……上達してます」
なんだか、それが少しうれしい。
前はできなかったこと。
苦手だったこと。
でも、少しずつ続けていたら、ちゃんと前よりよくなる。
それは、編み物だけじゃない気がした。
休むことも。
楽しむことも。
“何もしない時間”に焦らないことも。
この世界に来たばかりの私は、たぶん今よりずっと下手だった。
「……少しは、慣れましたかね」
誰もいない店で、私は小さく笑う。
外は大雨。
今日は、結局ひとり。
でも、不思議と寂しくない。
こういう日があるから、晴れた日が好きになれる。
誰も来ない日があるから、扉の鈴が鳴る日も少し特別になる。
火が、ぱちりと鳴る。
私は編みかけのそれを少し持ち上げて眺める。
まだ途中。
でも、前よりずっといい。
「……次は、もう少しきれいに」
少し前の私なら、うまくできないことに焦っていたかもしれない。
でも今は。
途中でも、悪くないと思える。
窓の外は、まだ雨。
冷たい春の日。
それでも、この店には灯りがある。
暖炉の火と。
静かな時間と。
少しずつ上達していく、自分の手。
私は温かいミルクをひと口飲んで、また編み針を動かす。
急がなくていい。
雨の日には、雨の日の過ごし方がある。
そう思える今日を。
私は、たぶん少し好きになっていた。




