【15話】増える楽しみ
朝。
店を開ける前に、私は棚の上に置いていた小さな包みを手に取った。
この前、庭先の席に座ったあの人が置いていった焼き菓子。
きれいな紙に包まれたそれを、昨日はなんとなく開けずにいた。
急いで食べるのも、少し違う気がして。
今日は、店を休みにした。
扉に小さく札を下げる。
『本日休業』
「……たまには、こういう日もいいでしょう」
誰に言うでもなく呟いて、私は包みを開けた。
中に入っていたのは、小さなクッキーだった。
丸くて、少し焼き色がついていて。
見た目は素朴なのに、どこか丁寧。
一枚、口に入れる。
「……あ」
さくり、と軽い音。
やさしい甘さ。
派手じゃない。
でも、ちゃんとおいしい。
「こういうの、いいですね」
お茶の邪魔をしない。
でも、少し嬉しくなる味。
そこで、ふと思う。
「……作れるでしょうか」
前世で、大人になってからはほとんどなかった。
お菓子なんて、忙しくて作る余裕もなかったし、作ろうと思う前に一日が終わっていた。
でも。
小さいころ。
母と一緒に、台所に立ったことがある。
粉をこぼして怒られて。
形が変になって笑われて。
それでも、一緒に焼いた。
「……クッキーくらいなら」
たぶん。
なんとか。
私は材料を並べる。
小麦粉。
牛乳。
砂糖。
バター。
「……たしか、こんな感じでしたよね」
最初の問題。
分量が、ちょっと曖昧。
「……まあ、なんとか」
ならなかった。
生地がやわらかすぎる。
「……あれ?」
二回目。
今度は粉が多い。
「……ぽそぽそですね」
三回目。
形を整えようとして、なんだか不格好になる。
「……丸って難しいんですね」
焼く。
少し焦げる。
「…………」
しばらく、無言。
「……でも」
食べてみる。
見た目は少し残念。
形も不揃い。
でも。
「味は、普通ですね」
特別おいしいわけじゃない。
でも、ちゃんとクッキーだ。
「……なら、いいでしょう」
それから私は、少しずつ作り続けた。
粉を減らしたり。
使う砂糖を変えたり。
焼き時間を見たり。
ひとつずつ。
本当に少しずつ。
うまくいかない。
でも、前みたいに。
“失敗したら終わり”じゃない。
「ゆっくりで、いいですしね」
誰に急かされるわけでもない。
今日できなくても、また明日やればいい。
そう思えるだけで、少し気が楽だった。
気づけば、テーブルの上にはクッキーの山。
丸くないもの。
少し焦げたもの。
妙に大きいもの。
見た目は、正直あまりよくない。
「……」
私は腕を組んで、しばらく眺める。
きれいとは言いがたい。
お店の商品として完璧、とはもっと言いがたい。
でも。
ひとつ摘まんで、口に入れる。
「……あ、これ」
少し焼きすぎたけど、香ばしい。
こっちは甘さ控えめ。
こっちは紅茶に合いそう。
少し形が崩れたこれは……ミルク多めのお茶なら悪くないかもしれない。
「……なんだ、けっこう楽しいですね」
失敗、というより。
違いがある。
同じクッキーのつもりでも、少しずつ味が違う。
なら。
「これ、ハーブティー用も作れそうですね」
ミアが持ってきてくれる香りのいいお茶なら、もう少し軽い甘さでもいいかもしれない。
ルゥが好きそうなのは、もう少しやわらかくて、蜂蜜とか。
紅茶なら、少ししっかり焼いたものも合いそう。
「小さいパウンドケーキとか……」
いや、もう少し簡単なものから。
「スコーン……は、難しいでしょうか」
頭の中に、お茶とお菓子が並び始める。
春のお茶。
いつもの紅茶。
ホットミルク。
それぞれに合うものがあったら、ちょっと楽しい。
まだ、目の前のクッキーは完成とも言いきれないのに。
なのに次が気になる。
「……忙しかったころには、なかったですね」
こんなふうに、
うまくいくかもわからないことを、ただ楽しいから考える時間。
私は新しい紙に、思いついたことを書き始める。
『少し甘さ控えめ』
『ハーブティー向け』
『蜂蜜?』
『もう少し丸く』
「……次は、もう少し上手に」
そう言いながら。
「その次は、別のお菓子も」
窓の外では、庭の花が風に揺れている。
店は休み。
今日は静か。
でも、なんだか少しだけ忙しい。
楽しい意味で。
私はまた生地をこねる。
次は少し砂糖を減らしてみようか。
それとも、焼き時間を変えるべきか。
考えることは、まだまだある。
「……これは、しばらく飽きませんね」
クッキーの香りが、店いっぱいに広がる。
明日のお茶うけ。
その次のお菓子。
いつか増えるかもしれない、メニューにない楽しみ。
まだ途中。
でも、それがいい。
私は少し笑いながら、次の一枚を形作った。




