最終話 榊便利堂
八月十五日の朝、榊便利堂へ最初に来たのは、梶十三だった。
荷台に積んだ野菜のなかで、茄子の袋だけが横倒しになっている。透が拾い上げると、梶はこれも持っていけと言って、さらに葱を一本渡してきた。
「こんなに食べ切れませんよ」
「千鶴ちゃんが帰るとき持たせりゃええ」
「千鶴の実家も乾物屋ですけど、野菜屋じゃないですよ」
「乾物ばっかり食うわけやないやろ」
透が昨日冷蔵庫へ入れた卵を差し出すと、梶は自分の手提げへしまい直した。忘れ物の礼を言う代わりに、また一本葱を渡そうとするので透が断った。梶は勝手口で麦茶を飲み、午前の仕事が何かを確かめた。透が網戸の戸車を交換すると答えると、脚立は持ったか、油は足りるかと順番に尋ねる。透は全部積んであることを見せた。
「それなら、行ってこい。わしはうちの草刈りする」
「今日、祭りですよ」
「夕方まで家におれん理由にはならん」
梶は空の籠を軽トラックから下ろし、自分の家へ向かった。七十一歳の足取りはゆっくりだが、透が見送っているうちに曲がり角を過ぎていた。
※
午前の網戸は、戸車を留めるねじが錆びていて、外すのに思ったより手間取った。透が工具を替えてねじ頭を押さえていると、依頼主が冷えた麦茶を持ってきた。
「きょうは祭りに行くんでしょう」
「仕事が終われば」
「こんな日に頼んで悪かったね」
「前から予約いただいてましたから。昼までに引き渡します」
麦茶を受け取る前に、透は依頼主へ網戸を最後に外した時期を聞いた。去年の夏、別の業者が網だけ張り替えているという。枠はそのまま使ったが、取り付けたあとから右へ動かすと引っ掛かるようになったらしい。
「網だけ替えたのに、下が悪くなるんですね」
「張り替えたときに曲げたとは限りません。枠とレール、両方見てから決めます」
「もう丸ごと替えたほうが早い?」
「今の状態なら、まず戸車を交換してみましょう」
透は外した網戸を敷物の上へ横向きに置いた。左側の戸車はまだ動くが、右側だけ軸に砂が噛んでいた。依頼主が掃き掃除をしたとき、レールの端に砂を寄せてしまったことがあるという。責める理由はない。網戸の敷居には、風で飛んできた枯れ葉も挟まっていた。
ねじの頭を傷つけず外すため、潤滑油をほんの少し差し、固い部分を布で包んで押さえた。戸車を取り替えても、右へ押すと一か所だけ小さな音がする。透はレールを拭き、端の曲がりを定規で確かめた。何度も出入りしたせいか、網戸を強く閉めた跡が付いている。
「ここも直さなあかんのですか」
「この程度なら、いま調整できます。部品は増えません」
「ほんま? 追加で払うつもりやったのに」
「まずここまで直して、動かしてもらってから判断しましょう」
透はレールの端を軽く調整し、枠を戻して上下の隙間を見た。依頼主は試しに網戸を開け、途中で止め、もう一度閉める。指を挟まないよう取っ手の位置を確かめると、今度は小さな引っ掛かりもなくなった。
「これなら孫が遊びに来ても自分で開けられる」と依頼主が言った。
「お子さんには急いで閉めないよう言うてください。もしまた異音がしたら、今度はレールの交換も見積もります」
透が最後の留め具を調整すると、依頼主は伝票の工賃と部品代を順に指で確かめた。説明した金額と同じだとわかり、ようやく机へ印鑑を取りに行った。透は外した戸車を処分用の小袋へ入れた。
道具箱の蓋を閉めかけたところで、依頼主が網戸を反対側まで押し、上の桟に少し隙間ができていると教えてくれた。透は戸車を取り替えたときの位置を見直したが、上側の枠が外れそうになるほどではない。何度か動かしてから留め具を一つ調整し、使う人にも同じように開け閉めしてもらった。
祭りの日に予定を空けられるか気にしていた透より、依頼主のほうが仕上がりを慎重に見ていた。透は伝票へ追加料金が掛からないことを書き添え、次に同じところが緩んだ場合の連絡先を渡した。
依頼主がもう一度右へ動かし、反対側まで引いても引っ掛からないことを確かめた。透は伝票へ受け取りの印をもらい、工具と古い戸車を軽トラックへ積んだ。
便利堂へ戻ると、航から棚の写真が届いていた。扉まで調整した完成写真の端に、航の親指が写っている。透は「指が邪魔」とだけ返して工具を片づけた。
※
午後、千鶴は乾物屋の売り場を母へ引き継いでから便利堂へ来た。祭りの手伝いが始まるまでに、透が午前の伝票を正しく帳簿へ入れたか確かめに来たのだという。
「見てください。今日の仕事、ちゃんと午前中に終わってる」
「見てます。それと、昨日の椅子の分、寺から確認の電話がありました」
「受け取り印もらったぞ」
「だから、どこにしまったか聞きに来たんです」
透は作業台の引き出しを開け、伝票を渡した。千鶴は控えを綴じ、祭り用の小さな紙袋を手に取った。楓も用事を済ませたら合流することになっている。二人で先に会場へ行き、千鶴の母親から頼まれた品物を受け取るらしい。
楓が来たのは、日が傾き始めたころだった。仕事用の鞄を車へ置き、便利堂の表で千鶴を呼ぶ。透は網戸の受け取り札を机へ戻し、戸口から顔を出した。
「もう行くのか」
「向こうで荷物を預からなきゃいけないんです」と千鶴が答えた。
「透さんは?」と楓が聞く。
「戸締まりしてから。先に行ってて」
二人が門のほうへ歩き出したので、透は声を掛けた。
「行ってらっしゃい」
千鶴が片手を上げる。だが、門を出る直前に鞄を忘れたことに気づき、慌てて店へ戻ってきた。透もちょうど資材の箱を抱えて戸口へ向かっていたので、二人はそこでぶつかった。
「あ、ごめん」
「こっちも前見てませんでした。……鞄、そこです」
千鶴は棚の脇から鞄を取り、もう一度楓のところへ駆けていった。透は落としかけた箱を抱え直し、二人が角を曲がるまで見送った。
そのあと作業台へ戻ると、引き出しの上で網戸の預かり札が半分はみ出していた。千鶴が見つければまた注意される。透は明日の日付を書き、控えと一緒に所定の場所へ差し込んだ。
店の戸を閉める前に、明日引き取る網戸の札を入り口へ出した。梶の持ってきた野菜は冷蔵庫へ入れ、千鶴の伝票も綴じ終わった。透は作業着の袖をまくり、戸締まりを確かめるために店の奥へ戻った。
八月十五日の夕暮れ。
太鼓の音が、町に響いている。
榊便利堂の一日は、
今日もそうして終わっていった。
**あとがき**
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
『預かり屋 榊便利堂』は、これにて全90話、完結となります。
誰かが最期に遺した、ほんの短い一言。
それを届けることで救われる人もいれば、受け取れない人もいます。言葉が届いたからといって、過去の出来事が消えるわけでも、すべてを許せるようになるわけでもありません。
そんな人々の暮らしの中で、透自身も少しずつ、自分が受け取れなかった言葉と向き合っていきました。
物語はここで終わりますが、臥雲町の人々の生活はこれからも続いていきます。透もきっと、草刈りや網戸の修理に出かけ、千鶴に請求書のことで小言を言われながら、いつもの便利堂で働いていることでしょう。
全90話という長い物語に、ここまでお付き合いいただけたことを嬉しく思います。
もし、この町の誰かや、誰かが遺した一言が、少しでも皆さまの心に残っていたなら幸いです。
最後まで本当にありがとうございました。




