敵影
避難が続くラウゼンへ、ついに敵軍発見の報せが届く。
民を逃がすため、今度は戦う者たちが前へ出ます。
ラウゼンの街から、また一台の魔獣車が出ていった。
車輪が石畳を離れ、獣王国へ続く街道へ入る。
その後ろ姿を見送る者は少ない。城門前には、次の避難民を乗せるための車がすでに並んでいた。
兵士に支えられた老人が歩く。
僅かな荷物を抱えた家族が列へ加わる。
空になった魔獣車が獣王国から戻り、休ませる魔獣と、すぐに使える魔獣へ分けられていく。
避難は止まっていない。
それでも、まだ終わってはいなかった。
閉ざされた店が増えている。
窓から明かりの消えた家。
人通りのなくなった路地。
聞こえるのは、住民を誘導する兵士の声と、城門を出入りする魔獣車の音ばかりだった。
ザインは道を塞いでいた荷物を抱え、脇へ運んだ。
地面へ下ろした瞬間、腹部の奥が僅かに疼く。
「……っ」
小さく息を止める。
傷はほとんど塞がっている。
日常の動きに支障はなく、短時間なら戦うこともできるとミレイアから許可されていた。
しかし、完全に元どおりになったわけではない。
「まだ痛むんでしょ」
背後からイリスの声がした。
振り返ると、彼女は避難民の列から外れ、ザインの腹部を見ていた。
「動けねぇほどじゃない」
「痛むかどうかを聞いてるの」
「ちょっとだけだ」
「なら休みなさい」
「その間に敵が待ってくれるならな」
イリスは納得していない顔をしている。
だが、周囲にはまだ多くの住民が残っていた。
家から出られない者。
何を持ち出すべきか決められず、立ち尽くしている者。
家族の姿を探している者。
今ここでザインを止めても、大人しく休まないことは分かっているのだろう。
「無理だと思ったら、すぐに言いなさい」
「分かった」
「本当に?」
「分かったって」
疑うような視線を残し、イリスは避難列へ戻った。
ザインも次の荷物へ手を伸ばす。
敵が来るまでに、一人でも多く送り出す。
今はそれだけでいい。
遠くから、何かが石畳を激しく打つ音が聞こえた。
一定の間隔で近づいてくる。
街の入口にいた兵士たちが振り返った。
一頭の騎獣が、王都へ向かって走ってくる。
背にはラウゼン軍の偵察兵。
騎獣も乗り手も、全身を土埃にまみれさせていた。
その走り方だけで、定時の報告ではないと分かった。
城門を通過した偵察兵が、喉を震わせて叫ぶ。
「敵軍を確認!」
城門前の空気が凍りついた。
避難民たちが足を止める。
街道へ向かいかけていた者が振り返り、母親が子供の肩を抱き寄せた。
「もう来たのか……?」
「どこにいる?」
「間に合わないんじゃ……」
不安が列の中を走る。
一人が後ろへ下がり、それにつられるように別の者も動いた。
「列を止めるな!」
ガレスの声が城門前へ響く。
「そのまま進め! 敵はまだここにはいない!」
兵士たちもすぐに声を重ねた。
「順番を崩さないでください!」
「魔獣車は予定どおり出発します!」
「家族から離れないように!」
これまで定めてきた手順に従い、列が少しずつ動き出す。
恐怖は消えていない。
それでも誰も走り出さず、押し合うこともなかった。
偵察兵は騎獣から降りると、支えようとする兵士の手を断り、城へ向かった。
ザインたちも呼び戻される。
戦争が、ついに地図の外へ出てきた。
*
偵察兵は軍議室の地図の前へ立っていた。
荒い呼吸を整えながら、自分が敵軍を確認した場所を指し示す。
レオニス。
ザイン。
イリス。
ノア。
ガレス。
第一陣の受け入れを終えてラウゼンへ戻っていたレグルス。
エリオン。
ラウゼン軍とエルグランド第1軍の関係者たちが、その報告を聞いている。
「ファイデン王国軍を、この地点で確認しました」
偵察兵の指が地図へ触れた。
「進路は変わっていません。ラウゼンへ向かっています」
「数は?」
レオニスが尋ねる。
「全体は把握できませんでした。ですが、先遣隊だけではありません」
偵察兵が唾を飲み込む。
「歩兵、魔法兵、補給部隊が一定の間隔を保って進んでいます。後方にも複数の隊列を確認しました」
ガレスの目が地図へ落ちる。
「行軍速度は?」
「ほとんど落ちていません。あれだけの兵を動かしているにもかかわらず、隊列にも大きな乱れはありませんでした」
大勢を集めただけの軍ではない。
兵士一人ひとりが役割を理解し、部隊として動いている。
軍事大国と呼ばれるファイデン王国の軍、そのものだった。
「早ければ、間もなく王都側からも視認できる距離まで来ます」
軍議室に沈黙が落ちる。
敵が来る可能性は、すでに全員が理解していた。
だが、可能性と、実際に目撃されたという報告は違う。
ファイデン軍は本当に存在し、今もラウゼンとの距離を縮めている。
扉が叩かれた。
別の伝令が入室し、書簡をエリオンへ渡す。
内容を確認したエリオンの表情が険しくなった。
「エルグランド王国軍にも動きがあった」
ノアが地図へ近づく。
書簡に記された位置をもとに、新しい印が置かれていく。
第95話まで、複数の軍団は別々の方向から進んでいた。
今は違う。
離れていた印が、同じ方向へ寄り始めている。
ノアが進路を指で追った。
「やっぱり……獣王国の方へ集まってる」
レグルスの顔が強張る。
視線が、獣王国の位置へ向けられた。
「攻撃が始まったという報告は?」
「まだない」
エリオンが答える。
「国境付近で敵軍を確認したわけでもない。だが、このまま進めば獣王国方面へ集結する可能性が高い」
レグルスは地図を見つめたまま、口を閉ざした。
自国へ戻るべきか。
その迷いが、握られた拳に表れている。
しかし、ラウゼンへ迫るファイデン軍はすでに確認されている。
一方、エルグランド軍の目的地は、まだ完全には断定できない。
「今すぐ戻っても、敵の位置が分からなければ動きようがない」
レグルスが低く言った。
「警告を送る。国境の警戒と、転送施設の守りを固めさせる」
「避難民の受け入れは?」
ガレスが尋ねる。
「止めさせない」
レグルスは即答した。
「今止めれば、街道上の避難民まで行き場を失う」
伝令へ向き直る。
「獣王国へ伝えろ。国境の警戒を強化。転送施設には増員を置け。避難民の受け入れは継続する」
一度言葉を切り、さらに付け加える。
「王命であっても、これまでと異なる不審な命令が出た場合は、必ず俺へ確認を寄越せ」
「承知しました」
伝令が軍議室を出ていく。
レグルスはまだ獣王国の位置を見ていたが、やがてファイデン軍の印へ目を戻した。
今は、目の前へ迫る敵を止めなければならない。
*
「城門を閉じるべきです」
ラウゼン軍の一人が進言した。
「敵軍が視認できる距離まで迫っています。このまま避難を続ければ、城門を開けた状態で迎え撃つことになります」
別の者も続ける。
「街道上の魔獣車が狙われる危険もあります。一度民を城内へ戻し、防衛を優先すべきかと」
避難を続ける限り、城門は使い続けなければならない。
魔獣車を出し、空になった車を戻す。
兵士も街道へ配置する必要がある。
防衛だけを考えれば、門を閉じて全兵力を集める方がいい。
しかし、そうすれば残った民は逃げられない。
レオニスは地図を見た。
その向こうにある王都へ、まだ多くの住民が残っている。
「避難は続ける」
軍議室の視線が集まる。
「しかし、陛下――」
「門を閉じて民を残せば、何のためにここまで逃がした」
声を荒らげたわけではない。
それでも、反対の言葉は止まった。
「城壁を守るために民を閉じ込めるつもりはない」
レオニスがファイデン軍の印を見据える。
「敵が来るなら、我々が前へ出る」
指先が、王都から離れた街道上へ置かれた。
「ここで迎え撃つ」
城門へ到達する前に軍を止める。
避難路から戦場を離し、残された時間を民へ渡す。
「我々が時間を作る」
レオニスは顔を上げた。
「その間に、民を逃がせ」
ラウゼン側の目的は、敵軍を全滅させることではない。
王都を無傷で守り抜くことでもない。
一人でも多くの民を、未来へ残すこと。
そのために戦う。
「ラウゼン軍は王都正面へ展開する」
レオニスが命令を出す。
「第1軍には、我が軍と並んで主戦線を支えてもらいたい」
エルグランド第1軍の代表がうなずく。
「承知した」
その先で待っているのが、同じエルグランドの軍である可能性もある。
それでも、その声に迷いはなかった。
「ガレス」
「はっ」
「ザインたちは遊撃へ回れ。敵陣へ突出する必要はない。戦線を破ろうとする部隊と、強力な魔法兵を止めろ」
ガレスがザインたちへ視線を向ける。
「聞いたな。勝手に奥へ入るなよ」
「俺を見て言うな」
「お前に言っている」
すぐに返され、ザインは口を閉じた。
「ミレイアは治療部隊と前線後方へ。兵と避難民、両方を診られる位置に拠点を作れ」
「分かりました」
「ノアは戦況を見て支援を回せ。一か所へ留まるな」
「はい」
「レグルスは防衛に参加しつつ、獣王国からの報告を受けろ」
「ああ」
「エリオンはエルフ王国との連絡を維持。避難民の受け入れと転送施設の状態を確認し続けてくれ」
「承知した」
命令を受けた者たちが、一斉に動き始める。
避難を続けながら、敵を止める。
残された時間を、一瞬でも長く引き延ばすために。
*
城の外では、武器と防具を身につけた兵士たちが集まり始めていた。
ザインが剣帯を締め直していると、レオニスが隣へ来た。
その視線が、腹部へ落ちる。
「戦えるのか?」
「短けぇならな」
「長引いたら?」
「長引かせねぇよ」
「そういう意味ではない」
「分かってる」
ザインは剣の柄を握り、具合を確かめる。
腹部には僅かな違和感がある。
供給管の傷も残ったまま。
外から意図的に魔素を増やすことはできない。
使えるのは、今ある力だけだ。
レオニスが低く告げる。
「無茶はするな」
「戦争始める奴に言え」
一瞬の間。
レオニスの口元が僅かに緩んだ。
「それもそうだな」
それ以上、言葉は交わさなかった。
レオニスは兵士たちのもとへ向かう。
ザインも仲間の姿を探した。
ガレスが配置を確認し、ダリオは装備を整えている。リナとシグも、いつでも動ける状態だった。
ノアは補助魔法に使う道具を確認し、ミレイアは治療部隊と必要な物資を分けている。
少し離れた場所に、イリスがいた。
戦闘用の装備を身につけ、長い髪をまとめている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に嫌な感覚が広がった。
巨人国へ向かう前から、消えずに残っているもの。
自分がこの戦争で死ぬかもしれないという、理由の分からない予感。
何かを言っておかなければならない気がした。
けれど、何を伝えればいいのか分からない。
視線に気づき、イリスが振り返った。
「なに?」
「……別に」
「変なの」
イリスは僅かに眉を寄せたあと、装備の確認へ戻った。
ザインはその横顔を数秒だけ見つめ、剣から手を離した。
今はまだ、言葉にできない。
*
城門が開かれた。
先に外へ出るのは、戦うための兵士たち。
ラウゼン軍。
エルグランド第1軍。
ザインたち。
レオニスも、自ら騎獣へ乗って列の前方へ向かう。
王だから城へ残るのではない。
彼が前線へ立つことに、意味がある。
その背後では、避難民を乗せた魔獣車が別の列を作っていた。
兵士は敵へ向かう。
民間人は敵から遠ざかる。
同じ城門から出た二つの流れが、街道の先で逆方向へ分かれていく。
窓から外を見る子供。
その魔獣車を守るため、剣を手に前へ進む兵士。
誰も振り返らなかった。
背後で魔獣車の音が遠ざかっていく。
その音が聞こえる限り、避難は続いている。
ザインは仲間たちとともに、迎撃地点へ向かった。
*
風に乗って、低い音が届いた。
最初は地鳴りのように聞こえた。
やがて、それが無数の足音だと分かる。
街道の先。
遠くに、規則正しく並ぶ影が見えた。
ファイデン王国軍。
ついに、地図上の印が目の前へ現れた。
先頭を進む歩兵。
その後方に並ぶ魔法兵。
さらに奥には、指揮を担う部隊と、補給や治療のための隊列が続いている。
無秩序に押し寄せてはこない。
部隊ごとの間隔は揃い、行軍中にもかかわらず大きな乱れがない。
ザインは目を細めた。
これまで戦った、数だけを集めた兵とは違う。
一人ひとりが鍛えられている。
そして何より、軍全体が一つの生き物のように動いていた。
敵軍の行進が止まる。
命令の音が響いた。
その直後、長く伸びていた隊列が短時間で形を変える。
前衛が横へ広がる。
魔法兵が一定の間隔を空けて並ぶ。
後方の部隊が、守られる位置へ下がった。
戦闘陣形。
迷いも混乱もない。
「……面倒そうだな」
ザインが呟く。
隣に立つガレスが、横目を向けた。
「そういう顔には見えんが」
「面倒なのと、やれねぇのは別だ」
剣の柄へ手をかける。
ラウゼン側も陣形を整えていた。
盾が並び、その後ろで兵士たちが武器を構える。
魔法を使える者たちが詠唱の準備へ入り、治療部隊はさらに後方へ拠点を作っている。
風が吹き抜けた。
ファイデン王国の旗が音を立てる。
鎧が擦れる。
剣が鞘から僅かに引き抜かれる音が、あちこちから聞こえた。
誰も話さない。
目の前にいる敵も、もとは自らの意思で生きていた人間だ。
今はフィルに操られ、ラウゼンを滅ぼすために立っている。
それでも、通すわけにはいかない。
レオニスが前へ出た。
長い演説はしなかった。
背後では、今も民が逃げ続けている。
全員が、自分たちの戦う理由を知っていた。
レオニスが敵軍を見据える。
「ここを通すな」
ラウゼンの兵士たちが武器を構えた。
ザインも剣を抜く。
刃が鞘を離れる音が、静寂を切り裂いた。
遠くで、ファイデン側の進軍命令を告げる音が鳴る。
整然と並んでいた前衛が、一斉に足を踏み出した。
ラウゼン側も前へ出る。
二つの軍勢の距離が縮まっていく。
敵の魔法兵が杖を掲げた。
いくつもの光が、その先端へ集まり始める。
戦争が、始まろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ついにラウゼンへ迫るファイデン王国軍の姿が確認されました。
城に籠もるのではなく、民を逃がす時間を作るために前へ出るレオニスたち。
避難が続くその背後で、二つの軍勢が向かい合います。
次回、ラウゼンでの戦いが始まります。
次回もよろしくお願いします!




