逃がすべきもの
戦争が始まる前に、やるべきことがある。
ラウゼンへ戻ったザインたちは、迫りつつある戦火に備えて動き始めます。
車輪が石を踏むたび、魔獣車の床が小さく揺れた。
腹部へ当てられた掌から、淡い光が流れ込んでくる。
温かなものが傷の奥へ染み渡り、残っていた鈍い痛みを少しずつ遠ざけていた。
ザインは天井を見上げたまま、息を吐く。
エルフ王国を発った直後は、車体が揺れるたびに腹の奥が疼いていた。今はもう、意識を向けなければ忘れてしまいそうなほど弱くなっている。
身体の中には、普段と変わらない量の魔素が巡っていた。
吸収量を増やしてはいない。
それでも傷は、確実に塞がり続けている。
エルフ王国で受けた治療。
ミレイアの治癒魔法。
そして、生まれつき備わっていた肉体の回復力。
どれか一つではなく、そのすべてがザインの身体を繋ぎ直していた。
上体を起こそうと腕へ力を込める。
「まだ着いてないわよ」
すぐにミレイアの声が飛んだ。
「もうほとんど痛くねぇぞ」
「それでも寝てなさい」
「いつまでだよ」
「私がいいと言うまで」
有無を言わせない声だった。
隣ではノアが窓の外を見ながら、笑いを堪えている。
「何笑ってんだ」
「笑ってないよ」
「なら、こっち見ろ」
「嫌だ」
「お前ら、俺を病人扱いしすぎだろ」
「病人だから治療用の車に乗せられてるのよ」
イリスにまで言われ、ザインは顔をしかめた。
以前なら、そのまま起き上がっていただろう。
痛みが消えたのなら動ける。動けるのなら戦える。
そう考えて、止める声など聞かなかった。
だが今は、身体から力を抜く。
「……分かったよ」
横になり直すと、ミレイアの手から流れ込む光が少しだけ強くなった。
「珍しいわね」
「何がだよ」
「素直に言うことを聞いたから」
「俺だって話くらい聞く」
「初めて知ったわ」
反論する気にもなれず、目を閉じる。
揺れる車内には、車輪の音と魔獣の足音が一定の間隔で響いていた。
どれほどそうしていたのか。
やがて速度が落ち、道を踏む音が滑らかになる。
土の道から、石畳へ入った。
ザインは目を開く。
今度は身体を起こしても、ミレイアは止めなかった。
窓の外へ目を向ける。
遠くに、ラウゼン王都の城壁が見えた。
その向こうには、城の尖塔が青空へ伸びている。
街へ近づくにつれ、見慣れた家々が姿を現した。煙突から白い煙が上がり、道には荷車が行き交っている。店先には品物が並び、人々が足を止めて言葉を交わしていた。
家も。
店も。
道も。
ザインたちが離れたときと、何も変わっていない。
まだ、どこにも戦争の傷はなかった。
◇
魔獣車が城門をくぐる。
帰還の報告はすでに届いていたらしい。ラウゼン軍の兵士たちが道を開け、その中には、見慣れない軍装の者たちも交じっていた。
エルグランド王国第1軍。
今もラウゼンに残り、この国と行動を共にしている兵士たちだ。
市街地には普段の生活が残っている。
それでも、兵士たちだけは休むことなく動いていた。
木箱に詰められた物資が城内へ運び込まれ、城壁の上では防具を身につけた兵士が行き交う。路地では武器の状態を確かめる音が続き、伝令が人波を縫うように駆けていった。
別の場所では、街中から集められた魔獣車が列を作り始めている。
その横を通り過ぎる住民たちは、不思議そうに眺めていた。
何が起ころうとしているのか。
まだ、誰も知らない。
魔獣車が城の前で止まった。
先に降りたガレスが周囲を確認する。ダリオ、リナ、ジグも続き、エリオンは待っていた兵士から新たな報告を受け取った。
ザインが立ち上がると、腹部にわずかな張りを感じた。
痛みはほとんどない。
自分の足で車外へ降りても、身体が揺らぐことはなかった。
城の扉が開く。
その奥から、レオニスが歩いてきた。
王の衣服ではない。
すぐに戦場へ出られるよう、防具を身につけている。
側近や兵士を従えていたが、ザインを見つけた瞬間だけ、その顔から王としての硬さが消えた。
レオニスは足を止める。
ザインの顔から腹部へ視線を落とし、再び顔を見る。
「……お前は、本当にしぶといな」
ザインがわずかに笑った。
「よく言われる」
レオニスは笑わなかった。
「心配させるな」
思っていなかった言葉に、ザインは僅かに目を見開いた。
王ではない。
戦場を共にした一人の友人として、レオニスは目の前に立っていた。
「……悪かったよ」
短い沈黙が落ちる。
「戻ったなら、それでいい」
それだけ言うと、レオニスの表情が変わった。
友人の顔が消え、王へ戻る。
「話を聞かせろ。時間がない」
◇
軍議室の中央には、大きな地図が広げられていた。
レオニスを中心に、ラウゼン軍の関係者とエルグランド第1軍の代表が立つ。
ザインたちも地図を囲んだ。
ファイデン王国からラウゼンへ続く街道。
エルグランド王国の各軍が駐屯していた地域。
獣王国へ向かう道。
それぞれの位置へ、印が置かれている。
「ファイデン王国軍は、すでに国境を越えたと見ていい」
エルグランド第1軍の代表が、地図上の印を動かした。
「だが、こちらの偵察隊はまだ姿を確認していない」
ガレスが尋ねる。
「規模は?」
「不明だ。複数の軍団が同時に動いているという報告しかない」
「エルグランド側は?」
イリスの問いに、別の印が置かれる。
「第1軍を除く各軍が動き始めている。ただし、進路は統一されていない。王都を離れた部隊もあれば、現在地を変えただけの部隊もある。最終的な目的地はまだ読めない」
「第3軍は俺が潰した」
ザインの言葉に、軍議室が一瞬だけ静まった。
「ならば残るのは、第1軍と、それ以外の軍団か」
レオニスが地図を見たまま確認する。
第1軍の代表がうなずいた。
「我々はフィルの支配を受けていない。ラウゼンと行動を共にする」
「助かる」
短く答え、レオニスはファイデン王国側の印へ目を移した。
ラウゼン軍の者たちが、迎撃について意見を交わし始める。
国境付近で敵を止めるか。
王都の城壁を中心に守るか。
予備兵力をどこへ置くか。
正体不明のエルグランド軍へ備え、どれだけの兵を残すか。
次々に言葉が飛び交う。
敵軍の規模が分からない以上、すべてが仮定の上に立った話だった。
「城壁へ弓兵と魔法部隊を集めます」
「それでは西側が手薄になります」
「エルグランド軍がそちらから来る保証はない」
「だが、兵力を分散させればファイデン軍を止められません」
「その前に、民を逃がす」
レオニスの声が、すべての議論を止めた。
軍議室が静まり返る。
ラウゼン軍の一人が、慎重に口を開いた。
「しかし、陛下。敵軍の規模もまだ判明しておりません」
「今から民を動かせば、かえって混乱を招く恐れがあります」
別の者も続ける。
「敵がラウゼンへ来るとは限りません。誤報だった場合、国の機能そのものが止まります」
レオニスは地図から顔を上げた。
「敵が見えてからでは遅い」
反論しようとする者はいなかった。
「敵軍が来なければ、民を戻せばいい。だが、来てから逃がそうとしても間に合わん」
その目が、軍議室にいる者たちを順に見渡す。
「守るべきものの順番を間違えるな。国が残っても、民が死ねば意味はない」
ザインは何も言わなかった。
避難を決めたのは、自分ではない。
レオニス自身が、王として選んだ。
「子供、老人、怪我人、病人を最優先に動かす」
レオニスが命じる。
「直ちに避難の準備を始めろ」
止まっていた軍議室が、一斉に動き出した。
◇
「避難先は獣王国だ」
エリオンが、ラウゼンから獣王国へ続く道を指でなぞる。
「獣王国には、大勢を運べる転送装置がある。そこからエルフ王国へ送る」
「エルフ王国は受け入れられるのか?」
「すでに準備を進めさせている。獣王国へも使者を送る」
問題は、その先ではなかった。
ラウゼンから獣王国まで、どれだけの民を運べるか。
集められる魔獣車の数には限りがある。
老人や怪我人は、長い距離を歩けない。
人を運ぶには食料と水がいる。
荷物を増やせば、一台に乗せられる人数が減る。
護衛を増やせばラウゼンの防衛が薄くなり、減らせば避難民を守れない。
机上へ並べられた木札が、何度も動かされる。
「持ち出せる荷物は必要最低限に制限する」
レオニスが、一つずつ決めていく。
「子供、老人、怪我人、病人を魔獣車へ。家族は可能な限り同じ隊列へ入れろ」
「健常者はどうしますか」
「歩ける者には歩いてもらう。ただし、幼い子供の親や介助が必要な者は同乗させる」
「護衛兵が足りません」
ガレスが地図へ目を落とした。
「第一陣は必要最低限でいい。街道上の危険箇所へ、先に兵を配置する。隊列の前後だけじゃなく、道そのものを守らせろ」
「それなら少ない人数でも対応できます」
「俺たちの部隊からも出す。残りはラウゼンの防衛へ回す」
命令が書き留められ、伝令が次々に軍議室を出ていく。
鐘を鳴らす準備。
住民名簿の確認。
魔獣車と食料の確保。
街道の安全確認。
獣王国への使者。
決めるべきことは、いくらでもあった。
それでもレオニスは迷わなかった。
何を守るための時間なのかを、見失っていなかった。
◇
軍議が終わると、ザインは隣室へ連れていかれた。
ミレイアが腹部の包帯を解いていく。
最後の布が外れ、フィルに貫かれた箇所が露わになった。
そこに残っていたのは、塞がった傷の痕だけだった。
指先で周囲を確かめたあと、ミレイアが治癒魔法を流し込む。
内側へ温かな感覚が広がった。
「……信じられない」
「治ってるか?」
「表面だけじゃない。内側も、ほとんど塞がってるわ」
ザインは腹部へ触れる。
軽く押しても、痛みはない。
身体を捻る。
僅かな違和感は残っているが、動きを妨げるほどではなかった。
「これなら動けるな」
「日常的な動きなら問題ない。短時間の戦闘も、身体だけを見ればできると思う」
「なら十分だ」
「最後まで聞いて」
ミレイアがザインの手を退ける。
「腹部の傷は治ってきている。でも、魔素供給管の傷は残ってる。今までみたいに身体全体へ無理やり魔素を流したら、どうなるか分からないわ」
「やらねぇよ」
「外から取り込む量を増やすのも禁止」
「分かってる」
ザインの返事を聞いても、ミレイアはしばらく疑うように見つめていた。
やがて新しい布を腹部へ巻き始める。
「治ったからって、また同じことをしていいわけじゃないからね」
「腹に腕を突っ込まれる予定なんかねぇよ」
「予定がなければ大丈夫だと思ってる?」
「普通はねぇだろ」
「あなたの場合、その普通が信用できないの」
言い返そうとした瞬間、城の鐘が鳴った。
一度。
続いて、もう一度。
重い音が王都全体へ広がっていく。
ミレイアの手が止まる。
避難命令を知らせる鐘だった。
◇
「子供と老人を先に!」
「荷物は必要なものだけにしてください!」
「家族は離れないように!」
兵士たちの声が、市街地のあちこちから響いていた。
鐘を聞いた住民たちが、家や店から顔を出す。
何が起きたのか分からず、兵士へ詰め寄る者。
道の中央で立ち尽くす者。
慌てて家へ戻る者。
「本当に戦争になるのか?」
「敵なんか、まだどこにもいないじゃないか」
「店はどうすればいい?」
「家を置いていけっていうのか?」
不安と疑問が、街の中へ広がっていく。
その間にも、城門前には魔獣車が集められていた。
ザインたちも市街地へ散る。
ザインは家から運び出された荷物を抱え、魔獣車へ積み込んだ。
「それも頼む!」
兵士が指した先には、大きな木箱が置かれている。
「中身は?」
「服と食器です!」
「置いてけ」
箱の持ち主らしい住民が声を上げた。
「だが、これはうちの――」
「全部積んだら、人が乗れねぇ」
ザインは箱の蓋を開け、厚手の服を数枚だけ取り出した。
「必要な分だけ持て。残りは戻ってきてから使えばいい」
住民は何かを言おうとして、閉ざされた自分の家を見た。
やがて服を受け取り、小さくうなずく。
別の場所では、イリスが住民たちへ避難経路を説明していた。
不安を訴える声を遮らず、一つずつ答え、列を整えていく。
ノアは名簿を手に家族の人数を確認し、別々の魔獣車へ乗せられそうになった親子を同じ列へ移した。
ガレスの指示が、城門前を飛ぶ。
護衛兵の配置が変わり、隊列の順番が組み直されていく。
ダリオは道を塞いでいた大きな荷車を動かし、混雑した場所に新たな通路を作った。
リナは城門の外へ出て、街道と周囲の様子を警戒している。
ジグの姿は、すぐに見えなくなった。取り残された者がいないか、市街地を走り回っている。
ミレイアは歩けない者の状態を確かめ、誰を先に乗せるべきかを判断していた。
エリオンのもとには伝令が絶えず行き来し、獣王国とエルフ王国へ送られる報告が次々に書き換えられていく。
誰一人として、立ち止まってはいなかった。
ザインは、足の悪い老人を抱き上げた。
軽い。
自分より長く生きてきたはずの身体が、驚くほど軽かった。
魔獣車へ乗せようとすると、老人はザインの肩越しに自分の家を見た。
古びた小さな家だった。
窓辺には鉢植えが並び、軒先には使い込まれた椅子が置かれている。
「鍵を……かけていない」
「兵士に頼む」
「そうか」
老人は答えたが、それでも家から目を離さなかった。
少し離れた店では、主人が扉を閉めている。
一度鍵をかけたあと、確かめるように何度も取っ手を引いた。
子供は魔獣車の窓へ顔を寄せ、自分たちの暮らしていた街を眺めている。
どうして家を離れるのか、まだ理解していないのかもしれない。
建物は何も壊れていない。
店も、道も、家も、そのまま残っている。
それなのに、人だけが少しずついなくなっていく。
ザインは無人になり始めた通りを見た。
ここを守るために戦うのではない。
ここで暮らしていた者たちを、生かすために戦う。
再び住民の荷物を抱え、城門へ向かった。
◇
空が赤く染まり始めた頃、第一陣の準備が整った。
城門前には複数の魔獣車が並んでいる。
子供。
老人。
怪我人。
病人。
そして、介助が必要な者の家族。
わずかな荷物を抱えた人々が、それぞれの車内へ収まっていた。
護衛兵が隊列の前後へ配置される。
街道の先には、すでに先行した兵士たちがいる。
目的地は獣王国。
そこから大規模転送装置を使い、エルフ王国へ避難する。
城門が、ゆっくりと開いた。
重い音とともに、外の街道が見えてくる。
先頭の魔獣車が動き出した。
続いて、二台目。
三台目。
車輪が石畳を離れ、乾いた土を踏んでいく。
窓から街を見る子供。
胸の前で手を組む者。
閉ざした家を探すように、何度も振り返る老人。
誰も大声では泣かなかった。
ただ、自分たちの国を見つめていた。
レオニスは城門の脇に立ち、一台ずつ見送っている。
ザインは、その隣へ並んだ。
遠ざかる隊列の向こうに、敵の姿はない。
剣戟も、魔法の音も聞こえない。
今あるのは、夕日に照らされながらラウゼンを離れていく、避難民の列だけだった。
「……全部逃がせると思うか?」
レオニスは答えなかった。
街道の先を見つめ続ける。
魔獣車は少しずつ小さくなり、やがて夕暮れの中へ溶けていく。
「分からん」
ザインが横を見る。
レオニスは視線を動かさなかった。
「だから、間に合わせる」
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は戦うためではなく、戦いが始まる前に民を逃がすための一話でした。
まだ敵の姿は見えていません。
だからこそ、今のうちにどれだけ多くの人を安全な場所へ送り出せるか。
ラウゼンから出発した第一陣は、獣王国を経由してエルフ王国を目指します。
次話もよろしくお願いします!




