動き始める戦争
死の淵から帰還し、新たな力の使い方を掴んだザイン。
しかし、彼が眠っている間にも世界は動き続けていた。
フィルが残した言葉が、ついに現実のものとなる。
「……なるほどな」
ザインは、わずかに力の集まった指先を見つめた。
全身を満たす必要はない。
必要な場所へ、必要な分だけ流し、役目を終えれば抜く。
白い世界で身につけた感覚は、現実の身体でも失われていなかった。
指先から魔素が消える。腕にも肩にも、余計な力は残っていない。
「できたみたいだね」
傍らで見ていたノアが、ほっと息をついた。
「ああ」
答えながら手を下ろす。
新しい力を手に入れた感覚はなかった。
もともと身体の中にあったものが、ようやく自分の意思どおりに動くようになった。それだけだ。
だが、以前の自分とは明らかに違う。
足りないから増やすのではない。
今あるものを、使い切る。
その手応えを確かめた直後、治療室の扉が激しく叩かれた。
全員の視線が向く。
返事を待たずに扉が開き、エルフの兵士が駆け込んできた。荒い呼吸を整える暇もなく、手にしていた書簡をエリオンへ差し出す。
「ラウゼンから緊急報告です」
エリオンの表情が変わった。
書簡を受け取り、封を切る。
紙を開く音だけが、妙に大きく響いた。
ザインはベッドへ背を預けたまま、その横顔を見つめる。文字を追うにつれて、エリオンの眉間に深い皺が刻まれていった。
「何があった」
ガレスが尋ねる。
返事はすぐには来なかった。
書簡を握る指へ力を込め、エリオンが顔を上げる。
「ファイデン王国の軍勢が、ラウゼンへ向かっている」
治療室の空気が張り詰めた。
「数は?」
「正確には分からない。ただ、先遣隊ではない。複数の部隊が国境を越え、同じ進路を取っている」
「威嚇じゃねぇな」
ガレスの低い声に、エリオンがうなずく。
「ラウゼンを落とすつもりだ」
ザインの耳の奥に、フィルの声が蘇った。
――まずは、大国を一つ動かしましょう。
あの言葉どおり、ファイデン王国が動いた。
フィルに操られた兵士たちが、自分たちの意思とは関係なく、ラウゼンへ向かっている。
だが、エリオンは書簡を閉じなかった。
その目はまだ、残された文章を追っている。
「……もう一つ、報告がある」
誰も口を挟まなかった。
エリオンがイリスへ一瞬だけ視線を向ける。
「エルグランド王国軍も動いた」
イリスの指が、膝の上で強く握られた。
息を呑む音はなかった。
表情も大きくは変わらない。
それでも、固く結ばれた手だけが、その名を聞いた衝撃を伝えていた。
ザインにとっても、エルグランドは生まれ育った国だ。
守りたいと思ったことはない。
戻りたいと思ったこともない。
それでも、自分がかつて暮らしていた国の軍勢が、敵として動き出したという事実は、腹の底へ重く沈んだ。
イリスが口を開く。
「第1軍は?」
「ラウゼンにいる。今のところ、動いていない」
第1軍は今もラウゼンに残り、王国と行動を共にしている。
ザインが続けた。
「……第3軍はいねぇ。俺が潰した」
残る軍団が、王都や各地の駐屯地を離れ始めている。
「向かっている先は?」
ガレスの問いに、エリオンが首を振った。
「まだ分からない。部隊ごとに進路が分かれている。ただし、通常の配置換えではない。ほぼすべての軍団が、一斉に動き始めている」
ファイデン王国だけではない。
エルグランド王国も。
二つの大国が、同じ時に軍を動かした。
もはや一つの国へ向けられた侵攻ではない。
戦争そのものが始まろうとしている。
ザインの脳裏に、巨人族の集落が浮かんだ。
踏み潰された住居。
瓦礫に埋もれた巨体。
百五十人が暮らしていた場所で、見つかった生存者は三人だけだった。
あの惨状を生んだ男が、今度は国同士をぶつけようとしている。
ザインは掛け布を退けた。
「ザイン?」
イリスの声を背に、床へ足を下ろす。
冷たい感触が足裏へ触れた。ゆっくり体重をかけ、立ち上がろうとした瞬間、腹部の奥を熱い刃で抉られたような痛みが走る。
「っ……!」
膝が折れかける。
すぐにミレイアが肩を支えた。
「何をしているの!」
「見りゃ分かんだろ。行く準備だ」
「分からないから聞いてるんじゃないわ!」
身体をベッドへ戻される。腹部に巻かれた布の下で、脈打つたびに鈍い痛みが広がった。
精神世界で負った傷は残っていない。
何度斬られた痛みも、積み重なった疲労も、白い世界を出た瞬間に消えていた。
しかし、フィルに貫かれた現実の傷だけは別だった。
ミレイアが腹部へ手をかざす。淡い治癒の光が布越しに染み込み、焼けるようだった痛みが少しずつ遠のいていく。
「傷は塞がり始めています。でも、損傷した内側は、まだ完全には戻っていないわ」
「歩ける」
「今は歩けるかどうかの話をしてるんじゃないの」
「ラウゼンに着くまでには治るだろ」
「そんな簡単に――」
「いや」
研究者の声が、ミレイアの言葉を止めた。
ザインの腹部へ視線を向けたまま、静かに続ける。
「可能性は高い」
ミレイアが振り返った。
「本気ですか?」
「普通の人間なら、まだ起き上がることすら許さん。だが、こいつの身体は今も魔素を使って傷を塞ぎ続けている」
研究者の指先が、腹部の包帯へ触れる。
傷の奥を確かめるように魔素が流れ込み、冷たい感覚が内側へ広がった。
「治療を始めた頃とは、回復速度がまるで違う。意識を取り戻したことで、肉体の修復も本来の働きを取り戻したらしい」
「エルフ王国での治療も効いているってことか?」
「それだけではない。もともとの肉体の強さと、自然に取り込んでいる魔素による修復。そのすべてが重なっている」
研究者が手を離す。
「意識して吸収量を増やした形跡もない。今ある魔素が、傷の修復へ優先的に回っている」
先ほど告げられた警告には反していない。
限界を越えて新たな魔素を取り込んだわけではなく、すでに身体の中を巡っているものが使われている。
「ラウゼンまでの移動中、安静を保て」
研究者はミレイアを見る。
「治癒を途切れさせなければ、到着する頃には内側の損傷も塞がるだろう」
「……完全に?」
「今の回復速度が落ちなければな」
ザインは小さく息を吐いた。
「なら、問題ねぇ」
「あるわよ」
ミレイアが即座に言い返した。
「到着する頃には治るかもしれないというだけ。今から動き回っていいという話じゃないわ」
「出発くらいできる」
「移動中は横になっていて」
「暇だろ」
「身体を治すのがあなたの仕事よ」
「寝てるだけじゃねぇか」
「それが嫌なら置いていくわ」
声に迷いはなかった。
ザインは反論しようとして、やめた。
以前なら、傷など無視して動いていた。
動けなくなるまで全身へ魔素を流し、足りなくなれば、さらに外から取り込んでいた。
だが、それでは意味がない。
フィルと戦う前に傷を悪化させれば、また仲間の足を引っ張る。
「……分かった。着くまでは寝てる」
ミレイアが目を見開いた。
「何だよ」
「いえ……あなたが素直に言うことを聞くとは思わなくて」
「俺だって話くらい聞く」
「初めて知ったわ」
「お前、俺を何だと思ってんだ」
「自分の身体を壊さないと止まれない人」
言い返せなかった。
ノアが顔を伏せ、笑いを堪えている。
「何笑ってんだよ」
「笑ってないよ」
「顔上げて言え」
「嫌だ」
二人のやり取りを横目に、イリスがザインの前へ立った。
その視線は腹部の包帯へ向けられている。
「本当に、着くまでは戦わないのね」
「ああ」
「勝手に一人で動かない?」
「動かねぇよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「ザイン」
「分かった。分かったって」
いつものように睨まれた。
だが、その目の奥に残る不安から、ザインは逃げなかった。
ガレスが書簡へ再び目を落とす。
「この進軍速度だと、ラウゼンへ知らせが届いた頃には……」
「すでに国境付近で接触している可能性が高い」
エリオンの言葉に、ガレスが顔を上げた。
「まずは敵の規模と侵攻経路を確認する。正面から止め切れないなら、民間人を逃がす道も必要になる」
「獣王国へ向かわせるのが現実的だ」
エリオンが地図のない机上へ指を滑らせる。
「獣王国には大規模な転送装置がある。そこまで避難民を運べれば、エルフ王国へ送ることができる」
「ラウゼンから獣王国までは?」
「魔獣車を集めるしかない。数が足りるかは、現地で確認する」
戦うだけでは足りない。
敵軍を押し返すだけでもない。
住民を逃がすには、道と時間が必要になる。
その両方を作る者も。
ガレスは一度目を閉じ、考えをまとめると、ザインへ向き直った。
「ラウゼンへ向かうことは認める」
その言葉に、ザインがわずかに眉を上げる。
「ただし、到着するまでは治療に専念しろ。現地でミレイアの確認を受けるまで、戦闘は禁止だ」
「分かった」
「単独行動もなしだ」
「善処する」
「守れ」
「……分かったよ」
ガレスはまだ疑うような目を向けていたが、それ以上は言わなかった。
ノアがザインを見る。
「僕も行くよ」
「お前は置いてくつもりだったんだけどな」
「どうして!?」
「冗談だ」
「今の顔、絶対に本気だったよね!?」
ノアの声に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
その間にも、エリオンは兵士へ指示を出している。
ラウゼンへの連絡。
移動手段の確保。
治療を続けられる魔獣車の手配。
残っている仲間たちの招集。
隣室で待機していたリナ、ジグ、ダリオにも、すぐに知らせが届いた。
時間はない。
ザインはもう一度立ち上がった。
今度は腹部へ負担をかけないよう、脚へ必要な分だけ魔素を流す。立ち上がる動作に合わせて身体を支え、姿勢が安定した瞬間に抜いた。
痛みはある。
それでも、先ほどのように膝は折れなかった。
ミレイアが険しい顔で見ている。
「痛くないふりをしても分かるわよ」
「してねぇよ。痛ぇ」
「だったら、魔獣車へ乗ったらすぐ横になって」
「ああ」
「治るまで剣も振らない」
「分かってる」
「絶対によ」
「何回言うんだよ」
「あなたが信用できるようになるまで」
ミレイアはそう言いながら、ザインの腹部へ新しい布を巻いた。
傷を守るよう、きつく、何重にも。
最後の結び目を作る指が、わずかに震えていた。
「必ず治すわ」
ザインはミレイアの顔を見る。
「頼む」
短い返事に、ミレイアの手が止まった。
やがて、小さくうなずく。
傍らに立てかけられていた剣を手に取る。
今すぐ振るうためではない。
次に戦うとき、万全の身体で握るために。
深く沈んでいる間にも、世界は止まっていなかった。
フィルも。
国々も。
戦争も。
治療室を出ると、廊下の先から慌ただしい足音がいくつも聞こえてきた。命令を伝える声が交差し、エルフの兵士たちが走っていく。
静かだった国が、急速に戦支度へ変わり始めている。
腹部はまだ痛む。
だが、傷の奥では、肉体が今も自分を生かそうと動き続けていた。
ラウゼンへ着くまでに治す。
そして、今度こそ止める。
ザインは剣を握り、仲間たちとともに歩き出した。
*
ザインたちが出発の準備へ向かったあと、研究者は治療室へ残ったエリオンを呼び止めた。
「待て。お前に預けるものがある」
差し出されたのは、布に包まれた小さな器具だった。
エリオンが受け取る。手のひらへ収まるほどの大きさしかない。
「これは?」
「ザインのために用意したものだ」
布越しでも、内部に複雑な術式が組み込まれているのが分かった。触れているだけで、周囲の魔素がわずかに揺らいでいる。
研究者の声が低くなる。
「もし、あいつが警告を破り、身体の限界を超えて魔素を取り込んだ場合に使え」
「何をする器具だ?」
「外部から取り込まれ、肉体の許容量を超えて滞留した余剰魔素。それだけを、強制的に外へ散らす」
エリオンの視線が、手の中の器具へ落ちる。
「ザインがもともと持っている魔素は?」
「消えない。通常どおり身体を巡っている分には干渉しない」
「なら、暴走も止められるのか?」
「そう単純なものではない」
研究者は即座に否定した。
「これは暴走を解除する道具ではない。精神を正常に戻すものでも、傷を治すものでもない。限界を越えた原因の一つを、身体の外へ逃がすだけだ」
「余剰分を消しても、ザインが戻るとは限らないということか」
「ああ」
短い返事が、治療室へ重く落ちた。
「だが、余剰魔素が残ったままなら、肉体の変化は進み続ける。本人の意識が身体へ戻ろうとしていても、戻れん可能性が高い」
研究者は器具へ目を向ける。
「これで肉体側の変化を止められれば、あとはザイン自身が戻れるかどうかだ」
助かるとは言わなかった。
エリオンは器具を握り直す。
「使い方は?」
「身体へ直接押し当てろ。発動するまで数秒かかる。その間、ザインを動かしてはならない」
エリオンが廊下の先を見る。
今のザインならともかく、限界を越え、理性を失った彼を数秒間止めるなど容易ではない。
「動いている相手には?」
「使えない」
「何度使える?」
「一度だけだ。術式が余剰魔素とともに崩壊する」
「ザイン本人には?」
「詳しく知らせる必要はない」
「なぜだ」
「これは、限界を越えてもよいという許可ではない。最後の手段だ」
研究者の視線が、扉の向こうへ向けられる。
「使わずに済むなら、それが一番いい」
エリオンは何も答えず、器具をしまった。
治療室を出ると、廊下の先にザインたちの背中が見えた。
傷を抱えながらも、その足取りに迷いはない。
ラウゼンへ向かうため、再び戦場へ戻ろうとしている。
エリオンは器具をしまった場所へ一度だけ触れ、そのあとを追った。
遠くで警鐘が鳴り始める。
その音は一度では終わらない。
次々と別の鐘が応えるように鳴り、静かだったエルフ王国へ広がっていく。
二つの大国が動き、止まっていた戦争が、再び動き始めていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ザインが回復へ向かう一方で、ファイデン王国、そしてエルグランド王国の軍勢が動き始めました。
これまで各地で燻っていた火種は、いよいよ国家同士の戦争へと変わっていきます。
そして今回、エリオンへ託された一つの器具。
これが使われる時が来るのか、それとも最後まで使われずに済むのか。
次話から、ザインたちは再びラウゼンへ向かいます。
次話もよろしくお願いします!




