俺の身体
第91話です。
もう一人の自分との戦いも、ついに決着へ。
ザインが勝つために選んだのは、相手には選べない戦い方でした。
「もう一度だ」
切っ先を向ける。
もう一人のザインも、同じ構えを取っていた。
僅かな沈黙。
先に地面を蹴ったのは人影だった。
白い空間を滑るように間合いが縮まる。
光の剣が首元へ走った。
半歩だけ外へずれ、迫る刃を受け止める。衝撃が手首を伝った瞬間、腕から魔素を抜いた。
押し合わない。
剣の角度を変え、相手の力を外側へ流す。
人影の身体が僅かに開く。
そこへ反撃を放つ。
踏み込みに合わせて魔素が身体を巡り、鋭い横薙ぎが胴へ迫った。
だが、もう一人の自分も止まらない。
必要な距離だけ後退し、刃を躱す。同時に剣を返し、伸びきった腕を狙ってきた。
魔素を肩から抜き、足へ送る。
腕を引くのと同時に身体を沈め、切っ先の下をくぐった。
すれ違う。
互いに反転し、もう一度踏み込む。
刃と刃が交差した。
高い音が一度。
二度。
三度。
これまでのように、一度の攻撃で勝負は終わらない。
受ける。
流す。
体勢を変える。
反撃する。
躱されれば、すぐに次へ備える。
剣を振り切る前に力を抜き、動きを止める。足元に亀裂は走らず、刃がぶつかっても身体が大きく流れることはない。
攻防が途切れなかった。
だが、完全に追いついたわけではない。
踏み込みから斬撃へ移る僅かな間。
人影の方が先に動いた。
避けきれず、光の刃が二の腕を掠める。
「くっ……!」
皮膚が裂け、焼けるような痛みが走った。
傷へ意識を向ける暇はない。
反撃を受け流し、距離を取る。
一度、攻防が切れる。
人影が元の位置へ戻ると、腕から血も傷も消えていった。
だが、痛みは残っている。
剣を握る指も重い。
荒くなった呼吸を整え、もう一度構えた。
人影が動く。
今度は、こちらも同時に踏み込む。
剣がぶつかる直前に腕を強化。
受けた瞬間に抜く。
次は足。
腰。
肩。
一つずつ、間違えないように。
一つずつ、遅れないように。
それでも僅かに追いつかない。
こちらが考えている間に、人影はもう次の動作へ移っている。
脇腹を浅く斬られた。
次の攻防では、肩口を裂かれた。
傷は消える。
痛みと疲労だけが、身体の奥へ重なっていく。
「あと少しなのに……」
息を吐き、剣を握り直した。
見えている。
何をしているのかも分かる。
それでも届かない。
「剣を振るときも、そんなに考えてるの?」
小さな存在の声が聞こえた。
視線だけを向ける。
「何?」
「足を動かして、腰を回して、肩を動かして――って」
長い尾が、動きに合わせるように揺れる。
「剣を振るたびに、一つずつ考えているの?」
「……そんなこと考えてたら斬られるだろ」
言い返した直後、言葉が止まった。
小さな存在が首を傾げる。
「じゃあ、どうして力だけは考えるの?」
握っていた剣から、僅かに力が抜けた。
足を動かせ。
腰を回せ。
肩を動かせ。
腕を伸ばせ。
そんな命令を、自分の身体へ一つずつ送ったことなどない。
敵が動けば、身体も動く。
刃が迫れば、考えるより先に受ける。
斬ると決めたときには、すでに足が地面を蹴っている。
何度も繰り返してきた剣術が、身体へ染みついているからだ。
だが、魔素だけは別に考えていた。
次は足へ。
次は腰へ。
役目を終えたから抜く。
剣を振りながら、もう一つの動作として操作していた。
それが、最後に残った遅れだった。
目の前では、人影が変わらぬ構えを取っている。
剣術と魔素を重ねるだけでは足りない。
別々のものとして重ねている限り、思考が一つ余る。
ならば――。
静かに息を吐いた。
もう一人の自分が踏み込んでくる。
魔素を動かそうとは考えなかった。
ただ、剣を見る。
首へ向かってくる軌道から、身体が僅かに外れた。
その瞬間、足へ自然に魔素が集まる。
刃が目の前を通過する。
反撃しようと思ったときには、腰が回っていた。
身体の連動に沿って魔素も移る。
背中から肩へ。
肩から腕へ。
手首から、剣を握る指まで。
振るった剣を、人影が受けた。
衝撃が返ってくる。
力を抜こうと考えるより早く、腕を満たしていた魔素が消えた。
刃を滑らせ、相手の剣を外へ流す。
すぐに踏み込む。
人影も同じ距離だけ動いた。
二本の剣が、白い空間で交差する。
大きな音は鳴らない。
地面も砕けない。
二人とも、必要な距離しか動かない。
大きく振りかぶることも、強引に押し合うこともなかった。
それでも剣だけは、目で追うことさえ難しい速度でぶつかり続ける。
人影の切っ先が肩口を掠めた。
同時に、こちらの刃も光の腕を浅く裂く。
互いに止まらない。
人影の剣を流せば、こちらの反撃も流される。
半歩踏み込めば、同じ距離だけ退かれる。
次の瞬間には、立場が逆転した。
斬る側と、受ける側。
前へ出る側と、退く側。
二人の動きは、次第に鏡のように重なっていった。
もう、魔素の位置を意識する必要はない。
身体が動けば、力も動く。
動作が終われば、自然に抜ける。
剣術と魔素は、別々のものではなくなっていた。
刃を受け流し、互いに距離を取る。
剣を構え直したところで、口元が僅かに上がった。
「……追いついた」
◇
エルフ王国の治療室。
寝台の上で、ザインの胸がゆっくりと上下していた。
乱れていた呼吸は、少しずつ安定を取り戻している。弱々しかった脈も、先ほどよりはっきりと感じられるようになっていた。
ミレイアが腹部へ治癒の光を注ぎ続けている。
フィルに貫かれた傷は完全に塞がっていない。それでも、止まらなかった内側の出血は、ようやく治まり始めていた。
その傍らで、エルフの治療師がザインの身体を巡る魔素へ意識を集中させる。
「流れが変わった……」
「ザインさんは?」
ノアが身を乗り出した。
治療師は答えず、目を閉じたまま魔素の状態を探る。
暴れてはいない。
無秩序に身体を巡っているわけでもない。
以前よりも流れは整い、一つの意思に従うように動き始めている。
それでも、ザイン本人の意識だけが戻ってこない。
「身体は持ち直しておる」
「だったら、どうして目を覚まさないの?」
イリスの問いに、治療師は沈黙した。
肉体が生き残ったからといって、そこへザインの意識が戻るとは限らない。
イリスは寝台の横へ座り、冷えた手を両手で包み込んだ。
「……帰ってきなさいよ」
呼びかけても、瞼は閉じたまま。
握った手も動かなかった。
◇
人影は答えない。
再び、同時に踏み込む。
最短の斬撃。
最小限の回避。
隙を見せれば、即座に反撃が返ってくる。
フェイントを入れても、重心の変化に合わせて対応された。
こちらが最善の攻撃を選べば、人影は最善の防御を選ぶ。
人影が最善の反撃を放てば、こちらも最善の方法で受け流す。
同じ身体。
同じ剣。
同じ技術。
同じ魔素。
そして今は、その使い方まで同じだ。
幾度刃を交えても、決着はつかない。
「このままじゃ終わらねぇな……」
距離を保ったまま、人影を観察する。
迷いがない。
攻撃が来れば、必要な分だけ動いて躱す。
隙があれば、最短の軌道で反撃する。
選ぶのは、常に最も無駄のない行動。
だから、間違えない。
だが――。
「……そうか」
何かが頭の中で繋がった。
人影が合理的な行動しか選ばないのなら、こちらの動きに対する答えも決まっている。
決して見逃さない場所。
自分が相手でも、必ず斬る場所。
意図的にそこを開ければ、次に剣が来る場所は一つしかない。
「だったら、来る場所は分かる」
剣を下段へ構える。
人影も応じるように切っ先を向けた。
最後の攻防。
地面を蹴る。
魔素は、身体の動きに遅れることなく流れていた。
人影も踏み込む。
二本の剣が交差する。
刃を受け流し、反撃へ転じた。
人影が半歩だけ退く。
ザインの剣を躱しながら、光の刃を返してくる。
その瞬間――左胸を守っていた剣を、僅かに外した。
致命的な隙。
人影は見逃さない。
最短距離で、心臓を狙ってくる。
予想どおりだった。
光の切っ先が胸へ迫る。
避けなかった。
刃が身体へ入る直前、半歩だけ位置をずらす。同時に魔素を胸の内側へ集中させ、剣の軌道から心臓を外した。
肉を貫く感触。
「――ぐっ!」
激痛が身体を突き抜けた。
口の中へ血の味が広がり、膝が深く沈む。
光の刃は、確かに胸を貫いている。
だが、心臓には届いていない。
まだ生きている。
人影が腕を引こうとした。
空いていた手を伸ばし、その手首を掴む。
逃がさない。
「……そこ、来ると思ったよ」
胸の奥が焼けていた。
息を吸おうとしても、喉から漏れるのは掠れた音だけ。視界の端が暗くなり、掴んだ手からも力が抜けかける。
それでも、指は離さなかった。
傷を負っても、まだ生きている。
死ななければ剣を振れる。
剣を振れるのなら、まだ負けではない。
致命傷を避けるために必要な分だけ魔素を残し、それ以外の力を反撃へ回す。
胸を貫く刃の痛みが、意識を焼いた。
それでも、人影の腕を離さない。
身体が動く。
魔素が重なる。
剣が走った。
光でできた胴を、深く斬り裂く。
淡い粒子が一斉に噴き出し、白い空間へ散った。
人影の腕から力が抜ける。
胸に刺さっていた剣が消えた。
数歩よろめき、片膝をつく。
その身体には、肩口から脇腹へ伸びる大きな亀裂が走っていた。内側から魔素の光が漏れ出している。
ザインの胸に開いた傷も消えていく。
だが、痛みは残った。
荒い呼吸を繰り返しながら、もう一度剣を構える。
あと一撃。
今なら、目の前の存在を完全に斬り伏せられる。
人影は片膝をついたまま、地面へ落ちかけた剣に手を伸ばした。
大きな亀裂から光を漏らしながら、再び立ち上がろうとしている。
傷ついても身体を動かす。
生き残るために。
ただ、それだけを繰り返していた。
振り上げかけた剣が止まる。
思い出す。
小さな存在が告げた言葉。
自分が消えれば、あれが残る。
目の前の存在は、身体を奪おうとしているのではない。
死の淵にある肉体を生かすため、自分の魔素が作り出したもの。
ザイン本人が戻れなければ、代わりに身体を動かすはずだったもの。
傷ついた人影が、再び剣を握った。
「……お前も、俺なんだな」
返事はない。
それでも、初めて目の前の存在が何なのか分かった気がした。
ゆっくりと剣を下ろす。
人影は傷ついた身体で立ち上がり、警戒するように構えていた。
その姿へ向かって歩き出す。
「けど、お前が俺の代わりになるんじゃねぇ」
一歩。
人影は動かない。
「この身体で生きるのは、俺だ」
さらに一歩。
剣を下ろしたまま近づく。
攻撃は来なかった。
目の前で足を止める。
顔はない。
声もない。
それでも、確かにもう一人の自分がそこにいる。
「この身体は――俺のだ」
相手を支配するための言葉ではない。
死にかけた自分の身体へ戻り、もう一度生きるという選択だった。
握っていた剣を、完全に下ろす。
少し遅れて、人影も同じように剣を下ろした。
戦い以外で初めて、二人の動きが重なる。
右手を伸ばす。
人影も手を伸ばした。
触れ合った瞬間、淡い光が二人の間から溢れ出す。
人影が吸収されたわけではない。
自分の中へ、新たな力が流れ込んできたわけでもない。
ただ、二人を分けていた境界だけが消えていく。
光の輪郭と、ザインの身体が重なる。
分かれていた肉体と魔素。
そして、それを動かす意思。
そのすべてが、再び一つへ戻っていく。
光が収まった。
もう一人のザインの姿はない。
真っ白な世界に残っているのは、自分と小さな存在だけだった。
手を開き、もう一度握る。
新しい力が増えた感覚はない。
魔素の量も変わっていない。
ただ、自分の身体が完全に自分の意思へ戻ったことだけは分かった。
小さな存在へ目を向ける。
「……お前は消えねぇのか?」
「私は、あなたになろうとしてないもの」
長い尾を身体へ巻きつけながら、こちらを見上げている。
その目には、どこか懐かしむような色があった。
「でも、本当に似てる」
「誰に?」
僅かな間。
小さな口が、その名を紡ぐ。
「ギーファ」
息が止まった。
「……お前、なんでその名前を知ってる」
小さな存在は、遠い何かを思い出すように目を細めた。
「ギーファも、あなたみたいだった」
頭の中で、過去の記憶が繋がる。
六百年前。
滅びるアルヴァの村から逃げた男。
その妻。
子供を身籠り、ギーファと共に生き残った女性。
確かめるように、その名前を口にする。
「……セラ?」
小さな存在の耳が、僅かに揺れた。
「その名前……懐かしいわね」
「お前、セラなのか?」
すぐには答えなかった。
自分の小さな前脚へ視線を落とし、静かに首を振る。
「分からない」
「分からないって……」
「たぶん私は、あの人の全部じゃない」
長い尾が、白い地面をゆっくりとなぞる。
「残っていた気持ちとか、記憶とか……そんなものなんでしょうね」
完全なセラではない。
六百年前に生きた女性が、そのままここにいるわけではない。
それでも、ギーファを知っている。
その名前を懐かしいと感じている。
「なんで俺の中にいた?」
「さあ?」
思わず息を吐いた。
「……結局それかよ」
僅かに笑う。
第89話から続いていた張り詰めた空気が、その瞬間だけ緩んだ。
小さな存在も、どこか楽しそうに目を細める。
その身体から、淡い光が漏れ始めた。
「おい」
長い耳の先が、光の粒へ変わっていく。
身体よりも大きかった尾も、端から少しずつ輪郭を失っていた。
セラの欠片は、自分の身体を見下ろす。
驚きも、恐怖もない。
ただ、自分の役目が終わったことを受け入れているように見えた。
「消えるのか?」
返事の代わりに、穏やかな視線が向けられる。
手を伸ばす。
しかし、零れ落ちた光は指の間をすり抜けた。
光はザインの中へ戻らない。
白い世界の上方へ、静かに昇っていく。
消えかけた小さな存在が、最後にこちらを見つめた。
「あなたがここにいるなら――私たちは、ちゃんと生き残れたのね」
ギーファとセラが逃げ延びたこと。
身籠っていた子供が生まれたこと。
その血が、六百年という時間を越えたこと。
説明する必要はなかった。
ここにいる自分自身が、その答えだった。
「……ああ」
セラの欠片は、安心したように目を細めた。
長い耳も。
大きな尾も。
小さな身体も。
すべてが淡い光へ変わっていく。
最後の粒子が、白い世界の上方へ昇った。
やがて光は見えなくなる。
「……ありがとな」
その言葉が届いたかは分からない。
静寂が戻る。
直後、足元に細い亀裂が走った。
「何だ?」
亀裂は瞬く間に広がり、白い地面を幾つにも分断していく。
空にも同じ亀裂が生まれた。
世界そのものが砕け始めている。
足場が光へ変わり、両足が空を踏んだ。
身体が落下する。
上下も分からない白い光の中へ、強い力で引き込まれていく。
遠くから、声が聞こえた。
『ザイン!』
誰の声か分からない。
光の奥へ手を伸ばす。
もう一度。
『ザイン!』
今度は分かった。
「……イリス」
その声へ向かって、手を伸ばした。
◇
音が戻ってくる。
誰かの呼吸。
衣擦れ。
微かな薬草の匂い。
胸が上下し、肺へ空気が入ってくる。
背中には柔らかな布団の感触があった。
右手が、温かな何かに包まれている。
精神世界で斬られた痛みはない。
幾度も立ち上がった疲労も消えていた。
長い戦いを終えたはずなのに、意識は不思議なほど澄み切っている。
ただ一か所。
腹部の奥だけに、重く鈍い痛みが残っていた。
フィルに貫かれた、現実の傷。
痛みに耐えながら、ゆっくりと瞼を開く。
ぼやけた視界。
白い天井。
その手前に、赤い髪が見えた。
「……イリス?」
握られていた手に、力がこもる。
イリスが息を呑んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
89話から続いた精神世界編は、今回で決着です。
もう一人の自分を消すのではなく、理解して受け入れる。そして、六百年前から残っていた想いに見送られ、ザインは帰ってきました。
次回は、ザインの身体に起きている変化と、その先にある危険が明らかになります。




