不穏な空気
アーヴェルの死。
その直後、戦場に起き始めた異変。
誰もがその正体を知らない中、ただ一人。
二年前の戦場を知るダリオだけが、その感覚を覚えていた。
アーヴェルの腕が、ゆっくりと上がった。
ザインの肩に手が置かれる。
ポン、と。
それだけだった。
何かを言うこともなく、肩に置かれた手から力が抜ける。
腕が落ちた。
ザインはしばらく動かなかった。
やがてアーヴェルの身体を静かに地面へ横たえ、傍らに置いていた剣を手に取る。
そして、立ち上がった。
その頃。
戦場の離れた場所で、ダリオ・ベルグが異変に気づいた。
教団兵の攻撃を大剣で弾き返した直後、身体に覚えのある感覚が走る。
音でもなければ、風でもない。
だが、知っている。
二年前。
たった一度だけ感じたことがある。
周囲に漂っていた魔素の流れが変わり始めていた。
戦場の中央へ。
ザインがいる場所へ。
「……まさか」
ダリオは中央を見る。
そして確信した。
「あの感覚だ……!」
近くにいた騎士が振り返る。
「ダリオさん?」
「全員、中央から離れろ!!」
突然の怒声が戦場に響いた。
「城の側面へ移動しろ! 絶対に中心部で戦うな!」
周囲の騎士たちが戸惑う。
「何を――」
「早くしろ!!」
ダリオは返事を待たなかった。
「獣王国とエルフ国にも伝えろ! 全軍、城の側面へ移動! 中央部を空けるんだ!」
命令が伝播していく。
ラウゼンの騎士たちが戦線を移動し始め、それに続いて獣王国、エルフ国の戦士たちも中央から離れていく。
当然、教団側にはその理由が分からない。
「敵が退いていくぞ!」
「撤退か?」
「違う! 左右へ移動している!」
教団の幹部たちも異変に気づき始める。
戦場の中央に、不自然なほど大きな空白が生まれていく。
「もっと離れろ! 城壁沿いまで下がれ!」
「ダリオ!」
ガレスの声が飛んだ。
「何が起きてる!」
「説明は後です!」
「ザイン副団長はどうした!」
ダリオは一瞬だけ言葉を止めた。
中央を見る。
「……だから下げてるんです」
「何?」
「ガレスさんも全員連れて側面へ! 俺はレオニス様のところへ行きます!」
納得した様子はない。
それでも、ダリオの様子が尋常ではないことはガレスにも伝わった。
「……分かった! お前ら、聞いたな! 中央を空けろ!」
ダリオはその場を離れ、レオニスのもとへ走った。
既にレオニスも軍の異常な動きに気づいていた。
「ダリオ!」
「レオニス様!」
「これはお前の指示か?」
「はい」
「理由を話せ」
ダリオは一度だけ中央を振り返った。
遠くにザインが見える。
アーヴェルの亡骸の傍らに立ったまま、まだ動いていない。
「二年前の、副団長が英雄と呼ばれるようになったきっかけの戦争についてお話します」
レオニスは黙って続きを待った。
「あれは、副団長の初陣でした」
二年前。
十八歳のザインが初めて戦場に立った日。
戦況は既に崩れかけていた。
敵軍は数千。
ザインとダリオが所属していた部隊へ与えられた役割は、敵を引きつけ、本軍が立て直すための時間を作ることだった。
撤退は想定されていない。
生還も期待されていない。
「俺たちの部隊は、作戦で言えば囮でした」
現在の戦場で、ダリオが語る。
「時間を稼いで死ぬ。それが俺たちの役目だったんです」
命令を受けた兵士たちも、自分たちが置かれた状況を理解していた。
ここで敵を引きつける。
そして死ぬ。
誰もが覚悟を決めようとしていた時。
一人の兵士が立ち上がった。
ザインだった。
「時間を稼ぐだけなら、俺一人でやる」
周囲の兵士たちがザインを見る。
「……何?」
「他は本軍と合流した方がいいだろ」
あまりにも普通に言うものだから、最初は誰もその意味を理解できなかった。
「お前、自分が何言ってるか分かってんのか?」
「分かってるよ」
ザインは剣を持ち上げる。
「全員残って死ぬより、一人残った方がマシじゃん」
「敵は数千だぞ」
「だから時間稼ぐんだろ?」
ザインにとっては、それだけの話だった。
誰かが残らなければならない。
なら、一人でいい。
「俺が派手に突っ込めば、向こうも無視できないだろ」
そう言って、本当に一人で歩き出した。
「待て」
ザインが振り返る。
ダリオだった。
当時二十四歳。
初陣のザインより六つ年上だった。
「俺も行く」
「なんで?」
「お前より年上だからだ」
「理由になってなくね?」
「うるせぇ。年下を一人で死地に行かせられるか」
ザインは少しだけ考えた。
「まあ、いいけど」
それが。
二人が初めて共に戦った日だった。
作戦は至って単純。
敵の注意を引く。
そのために選んだ方法も単純だった。
真正面から突撃する。
ダリオが大剣を振るい、立ちはだかる兵士を吹き飛ばす。
その横をザインが駆け抜けた。
敵兵の間へ入り込み、剣を振るう。
一人を倒せば、そのまま次へ。
魔法が飛んでくればかわし、術者との距離を一気に詰める。
包囲される前に一角を崩し、さらに奥へ突っ込んでいく。
「お前、本当に初陣か!?」
「今日が初めて!」
「嘘つけ!」
「なんでだよ!」
二人は敵軍の中を暴れ回った。
敵も当然、二人を放置できない。
次第に兵力が集中していく。
本軍へ向かっていた敵まで、二人を潰すために進路を変える。
目的は果たしていた。
時間を稼ぐ。
それだけなら、十分すぎるほどに。
だが。
相手は数千。
どれだけ倒しても終わらない。
剣を振るえば、次が来る。
魔法をかわしても、その向こうから別の魔法が飛んでくる。
二人の身体にも少しずつ傷が増えていった。
そして。
先に動けなくなったのはダリオだった。
攻撃を受けて地面へ倒れ、立ち上がろうとしても脚に力が入らない。
「くそっ……!」
敵兵が迫る。
その前へザインが入った。
剣を振るい、ダリオへ迫っていた兵士を退ける。
「動ける?」
「……無理だ」
「じゃあ、そこで休んでて」
「馬鹿野郎、逃げろ!」
ザインは敵軍を見る。
「置いていけるかよ」
そこからだった。
ザインが無茶を始めたのは。
それまでなら避けていた攻撃を、受けるようになった。
自分が避ければ、後ろにいるダリオへ届く。
だから前へ出る。
炎が直撃し、ザインの身体が吹き飛ぶ。
それでも立つ。
雷を受け、膝をつく。
また立ち上がる。
複数の魔法がザインへ集中していく。
「ザイン!!」
ダリオが叫んだ。
「もういい! 逃げろ!!」
ザインは振り返らなかった。
ダリオの前に立ったまま、再び剣を構える。
「副団長は、あの頃からそういう人でした」
現在。
ダリオがレオニスへ語る。
「自分がどれだけ傷ついても、後ろに誰かがいると退かない」
そして。
二年前。
複数の魔法が同時にザインへ直撃した。
炎が包み、雷が走り、衝撃が地面を抉る。
ザインの姿が煙の中へ消えた。
ダリオは動けない。
助けに行くこともできない。
もう終わった。
そう思った。
その時だった。
空気が変わった。
何が変わったのか。
当時のダリオには説明できなかった。
ただ。
戦場そのものがザインを中心に変化したように感じた。
周囲に漂っていた魔素が動き始める。
ザインがいる場所へ向かって。
敵兵たちも異変に気づき、攻撃を止めた。
煙が晴れていく。
ザインが立っていた。
全身に傷を負い、血を流している。
それでも立っている。
そして、その皮膚の周囲には青黒い揺らぎが現れていた。
炎ではない。
魔法とも違う。
ザインの輪郭そのものが僅かに揺れている。
周囲から魔素が集まっているようにも見える。
それでいて。
ザイン自身が魔素の一部になってしまったようにも見えた。
「俺には、何が起きていたのか分かりませんでした」
ダリオが言う。
「あれが魔法だったのか。それとも別の何かなのか。今でも分かりません」
ただ。
一つだけ。
はっきり覚えている。
「あの姿になってからです」
ザインが地面を蹴った。
姿が消える。
次に見えた時には、敵兵が倒れていた。
さらに次。
その次。
包囲しようとしても追いつかない。
魔法を撃っても止まらない。
攻撃を受けても、その勢いのまま前へ進む。
ただ敵を倒す。
次の敵へ向かう。
そして、また倒す。
数で押し潰そうとしていた敵軍が。
一人の人間から逃げ始めた。
「戦争が、戦争じゃなくなったんです」
レオニスは何も言わない。
ダリオも中央から視線を外さなかった。
「数千人いました。それでも、あの姿になった副団長を止められる者はいなかった」
一度だけ息を置く。
「あれはもう――蹂躙でした」
レオニスが問いかける。
「敵味方の区別がつかなくなるのか?」
「いえ」
ダリオはすぐに否定した。
「俺は襲われませんでした」
「なら、なぜ軍を退かせた」
「あの人の戦いに巻き込まれるからです」
ザインが味方を狙うわけではない。
だが。
あの状態のザインが戦う場所へ、他の兵士が入り込む余地などなかった。
「俺たちが中央に残っても邪魔になります。それどころか、あの戦いの中にいれば何が起きてもおかしくない」
二年前。
やがてザインの周囲から敵がいなくなった。
倒れた者。
逃げた者。
戦意を失った者。
ザインが戦うべき相手が消えた時。
身体を覆っていた青黒い揺らぎも消えていった。
そしてザインは、その場に倒れた。
「俺が知っているのは、それだけです」
ダリオが言った。
「副団長自身が、あの時のことをどこまで覚えているのかも分かりません」
レオニスは中央を見る。
アーヴェルの亡骸の傍ら。
ザインが立っている。
その向こうには、レオンハルト。
そして事情を知らない教団の兵士たち。
レオンハルトも異変に気づいたのか、ザインを見ていた。
ザインは何も言わない。
剣を持ったまま立っている。
やがて。
その足元に。
青黒い揺らぎが現れた。
ダリオの声が低くなる。
「……始まる」
戦場に漂う魔素が流れを変える。
一斉に。
ザインへ向かって。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
二年前、ザインが英雄と呼ばれるきっかけとなった初陣。
そこで一度だけ現れた、青黒い揺らぎ。
そして現在の戦場にも、同じ異変が起こり始めました。
次話、ザインとレオンハルトの戦いはいよいよ最終局面へ。




