9.見える者
「さ、行こ! ナクト!」
村の門扉の脇で待っていたウルリカが、肩ほどの高さの杖を片手に、ナクトの背を軽く押した。
振り返った先の村には、見送りの姿はない。“行ってらっしゃい”も、“気をつけてね”もなかった。窓の隙間からこちらを窺う気配すらなく、まるで最初から自分たちなど存在しなかったかのように、村は静まり返っている。
――もう挨拶は済ませてきたのだろうか。
それとも、本当に縁を切られてしまったのだろうか。
胸の奥に沈みかけた不安を吹き飛ばすように、春の風がふわりと吹き抜けた。草木が揺れ、淡い花びらが道の上を転がっていく。
「どうしたの? 変な顔して」
「へ、変な顔なんかしてないよ!」
ナクトは慌てて首を横に振る。その必死な様子がおかしかったのか、ウルリカはくすりと笑った。
「ほんと変なの」
その笑顔に、後悔の色は見えなかった。
「で、どっち行く?」
ウルリカは前方と左右の道を順番に指差す。ナクトは小さく視線を逸らした。
――王都じゃないなら、どこでもいい。
「ナクトが決めないなら、私が決めちゃうね。えーっと……あ、じゃああっち!」
ウルリカは右側の道へ勢いよく杖を向けた。
道の両脇にはアーチのように木々が枝を伸ばし、木漏れ日がまだら模様を描いている。馬車一台がようやく通れるほどの細道だったが、その先には今まで知らなかった世界が続いている気がした。
まるで、“冒険”そのものが口を開けて待っているようだった。
「どのくらい歩くの?」
「馬なら三十分くらいかなー」
「……歩きだと?」
「三時間くらい!」
「さ、三時間!?」
ナクトの顔がみるみる青ざめる。
「そ! さあさあ、冒険だー!」
拳を突き上げて笑うウルリカの隣で、ナクトは糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽
「グ、グ、ググググ〜……」
静かな森の中に、間の抜けた音が響いた。
「ふふ、お腹すいたでしょ、ナクト」
村を出たのは昼過ぎ。朝から何も口にしていないナクトの空腹は、隠しようもなく顔に出ていた。もっとも、“朝”と言っても、ナクトが目を覚ましたのは昼近くだったのだが。
「……でも、空腹には慣れてるから」
ナクトは小さく呟く。
孤児院では、食事を他の子どもたちに取られることも少なくなかった。だから空腹は、昔から身近なものだった。
「ふーん、そうなんだ」
ウルリカは少し不思議そうにナクトを見たが、それ以上は聞かなかった。
「まあ、とりあえず休憩しよっか。野宿するなら、水場も探さないとだし」
そう言って、ウルリカは森の中をきょろきょろと見回し始める。木々の隙間から差し込む夕陽が地面を照らしていた。
“休憩”という言葉を聞いた瞬間、ナクトはその場にぺたんと座り込んだ。
やっぱりウルリカは頼りになるな――そんなことをぼんやり考えながら眺めていると、ウルリカがくるりと振り返る。
そして、じっとナクトを見つめた。
「……なにしてるの?」
「え?」
「ほら、あなたも探すの」
「えぇ……?」
当然のように言われ、ナクトは間の抜けた声を漏らす。てっきり、自分は休んでいていいものだと思っていた。
「当たり前じゃない。はい、行くよ」
ウルリカはナクトの首根っこを掴むと、そのままずんずん森の奥へ歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待っ――」
抵抗も虚しく引きずられていった先には、一本の大きな樹がそびえ立っていた。幹は大人が数人で囲めそうなほど太く、枝葉は空を覆うように広がっている。
さらに近くには、夕陽を映した静かな池まであった。
「今日はここにしよっか」
ウルリカは満足そうに頷いた。
木陰もある。水もある。野宿するには十分すぎる場所だった。
「今日の夜ご飯はこれで我慢してね」
ウルリカは地面に下ろしたリュックを開け、中から少し硬そうなパンを取り出す。そして、それをナクトへ差し出した。
受け取ったパンは、まだほんのり温かかった。
「冒険してから初めての野宿だね。なんか、いろいろ手間取っちゃった」
集めた枯れ枝を焚き火にくべながら、ウルリカが苦笑する。
火の傍には、葉を重ねて作った簡素な寝床が二つ並んでいた。火起こしも、寝床作りも、水の確保も、ほとんどウルリカがやってくれたものだ。ナクトはというと、その間ずっと周囲をおろおろ歩き回っていただけだった。
「ごめんね……ウルリカ」
申し訳なさそうにナクトが俯く。
するとウルリカは、ぱっと顔を上げて笑った。
「ぜーんぜん大丈夫! むしろ楽しかったし!」
焚き火の橙色の光が、彼女の白い歯を照らす。
「この辺は魔物も出ないって聞いてるから、今夜はゆっくり眠れそうだね」
その言葉に、ナクトも小さく肩の力を抜いた。
気づけば日はすっかり傾き、森には夜の気配が満ち始めていた。焚き火のぱちぱちと爆ぜる音だけが静寂の中に残り、木々の隙間からは淡い月明かりが差し込んでいる。
「少し早いけど、明日に備えて寝よっか」
「うん、そうだね」
二人は焚き火の火を弱め、葉を積み重ねた寝床へ横になった。
歩き疲れていたナクトは、目を閉じて間もなく眠りへ落ちていった。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽
数時間後。
ぐっすり眠っていたナクトは、寝返りを打った拍子に寝床から半分転げ落ち、脇にあった小石へ思い切り腕をぶつけた。
「っっ、ってぇ!?」
激痛に思わず飛び起きる。
「ど、どうしたの!?」
隣で寝ていたウルリカも驚いて身体を起こした。
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、トイレ行ってくるね」
「えっ!?」
「え?」
立ち上がろうとした瞬間、ウルリカが慌てたようにナクトの袖を掴んだ。
「トイレって普通、寝る前に済ませるものでしょ!?」
なぜ怒られているのか分からず、ナクトはぽかんとする。
「……ついてく」
「来るの?」
ウルリカは暗い森の奥をちらりと見てから、小さく咳払いした。
「……いいけど、なるべく離れててよね」
「う、うん……?」
結局、ナクトは渋々ウルリカの同行を許した。
昼間とは違い、夜の森は別世界のようだった。ウルリカは“この辺に魔物は出ない”と言っていたが、それでも不気味さまでは消えない。木々の隙間は黒く沈み、風が枝葉を揺らすたび、どこかで誰かが囁いているような音が響く。
「い、いやー……夜の森って結構暗いね……」
ウルリカの声は、どこか引きつっていた。
「うん、そうだね」
対するナクトは平然としている。孤児院の物置や薄暗い廊下に慣れていたナクトにとって、暗闇そのものはそこまで怖いものではなかった。
「じゃ、じゃあここで待っててね」
ナクトはそう言うと、少し先へ歩き出そうとする。
「は、早くしてよね!」
「え? うん、分かった」
やっぱりウルリカの言動はよく分からない。
そんなことを考えながら数歩進んだ、その瞬間だった。
――ふわり。
突然、目の前に白い靄が立ち込めた。
「っ……!?」
ナクトは反射的に足を止める。靄はゆっくりと渦を巻き、その奥から“何か”が浮かび上がってきた。
人の形をしている。だが、人ではない。紫色の瘴気を纏った、半透明の影。
「な、なに……!? なにあれ!?」
ナクトの声が徐々に大きくなる。その声を聞き、ウルリカが慌てて駆け寄ってきた。
「ナクト!? どうしたの!?」
涙目になりながら周囲を見回すウルリカに、ナクトは震える指を向ける。
「あ、あそこ……!」
「え? どこ!?」
ウルリカはナクトの腕にしがみついたまま、きょろきょろと辺りを見渡した。
「見えないの……? ほら、あそこだよ」
ナクトは真正面を指差す。
「な、何も見えないよ! ナクト、こんな時に変な冗談やめてってば……!」
だが、その“何か”はゆっくりとこちらへ近づいてくる。音もなく。地面を滑るように。
「き、来た……! そこにいる!」
「や、やめてぇっ!」
ウルリカが半泣きで叫んだ、その時だった。
ふっ――。
突然、靄が晴れる。
『……君、私が見えるの?』
そこに立っていたのは、淡い紫色に透けた、一人の女性だった。




