8.たった一人の味方
「ナ、クト……」
ウルリカは掠れた声を漏らした。目の前に立っているそれを、果たして本当に“ナクト”と呼んでいいのか分からなかった。
黒紫の霊体に覆われた少年は、もはや先ほどまで怯えていた姿とは別物だった。背後で揺らめく翼持つ死霊たちは、不気味な呻きを漏らしながら空中を漂い、その紫色の瞳は闇夜すら呑み込んでしまいそうなほど深く濁っている。
村を襲っていた魔物たちは、いつの間にか一匹残らず消え失せていた。いや、“消えた”というより。存在そのものを削り取られたように、跡形もなく霧散していた。
男たちも武器を握ったまま硬直し、恐怖に染まった目でナクトを見つめる。
誰も動けない。誰一人として、声すら出せなかった。
するとナクトがゆっくりと顔を上げ、夜空を見上げる。
そして。
「……う、ぁ……あぁぁぁぁ――ッ!!」
人間のものとは思えない絶叫が村中へ轟いた。
瞬間、空気が沈んだ。
否、世界そのものが押し潰されたかのようだった。
「――ッ!?」
ウルリカの身体が地面へ叩きつけられる。
男たちも同様に膝を砕かれたように倒れ込み、呼吸すらまともにできない。見えない“何か”が全身へ圧し掛かり、肺が悲鳴を上げていた。
「……ナ、クト……」
ウルリカは震える指を伸ばすが、その言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
急激な眠気。頭の奥へ直接泥を流し込まれたような不快感。視界が揺れる。
次々と人々が倒れ込み、苦しげな呻き声を漏らし始めた。まるで全員が、同じ悪夢へ引きずり込まれているかのようだった。
そして、ナクトの背後で蠢いていた翼持つ死霊たちが、ふっと霧のように掻き消える。同時に、ナクト自身も糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
静まり返った村には、荒い寝息と、悪夢にうなされる声だけが残されていた。
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翌日、ナクトは与えられた家のベッドの上で目を覚ました。だが、意識が浮上すると同時に、全身へ鉛のような重さがのしかかる。
「っ……ぁ」
身体が動かない。
まるで全身の血液を無理やり抜き取られた後のような、凄まじい虚脱感だった。指先に力すら入らず、起き上がろうとした瞬間、激しい頭痛が脳を揺さぶり、ナクトは再びベッドへ倒れ込む。
視界がぐらりと歪む。呼吸をするだけで胸が痛い。
「……なん、で……」
掠れた声が漏れる。
意識ははっきりしている、が身体だけが限界を迎えたように悲鳴を上げていた。
今日はまともに動けそうにない。そう悟った時、不意に昨夜の光景が脳裏を過った。
魔物の群れ。ウルリカの叫び。
そして――。
そこから先の記憶だけが、黒く塗り潰されたように曖昧だった。
「そういえば……昨日……」
嫌な胸騒ぎが込み上げる。ナクトは歯を食いしばりながら身体を起こし、部屋の隅へ立てかけられていた松葉杖へ手を伸ばした。それはウルリカが用意してくれたものだった。
ふらつく身体を無理やり支えながら外へ出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でる。
だが、目の前に広がっていた光景に、ナクトは息を呑んだ。
「……え」
村が、壊れていた。
木造の家屋は半壊し、屋根は焼け落ち、あちこちに瓦礫が散乱している。市場に並んでいたはずの野菜や肉も跡形もなく、地面には乾ききっていない血が黒くこびりついていた。
昨夜までの活気はどこにもない。まるで死んだ村だった。
「これ……全部、魔物の……?」
ナクトは呆然と呟く。
そして次の瞬間、はっと顔を上げた。
「ウルリカ……! みんなは……!」
松葉杖を鳴らしながら辺りを見渡す。
すると建物の陰から、誰かの視線を感じた。
村人たちだった。皆、物陰に隠れるようにしてナクトを見ている。その目に浮かんでいたのは、安堵ではない。怯えだった。
「……よかった」
ナクトは小さく息を吐く。
「みんな、無事だったんですね」
そう言って近づこうとする。だが、誰も返事をしなかった。
空気が重い。異様なほど静まり返っている。
ナクトは困惑しながらも、最近よく懐いてくれていた少年の姿を見つけ、少し安心したように歩み寄ろうとした。
その瞬間だった。
「こっちに来ないで!!」
鋭い悲鳴が響く。ナクトが目を見開くより早く、少年の母親が飛び出してきた。彼女は息子を庇うように抱き寄せ、怯え切った目でナクトを睨みつける。
「……化け物ッ!!」
「…………え?」
理解が追いつかなかった。今、自分は何と言われたのか。いや、そもそもそれは本当に、自分へ向けられた言葉なのか。ナクトの思考が止まる。すると今度は、周囲の物陰から次々と怒声が飛び始めた。
「出ていけ、この化け物!」
「悪魔め! 最初から俺たちを殺すつもりだったんだろ!」
「疫病神が……! さっさと消えろ!!」
ナクトは一歩後ずさる。胸の奥が冷たくなっていく。皆の視線が怖かった。憎悪と恐怖が混ざったその目は、まるで人間を見るものではない。
そして、ようやく理解する。
――これは全部、自分へ向けられている。
「ぼ、く……?」
喉が震える。頭の奥が酷く痛んだ。
その時だった。
「やめてッ!!」
聞き慣れた声が、空気を切り裂く。振り返ると、そこにはウルリカが立っていた。
「ナクトは魔物を追い払ってくれたのよ! 彼がいなかったら、みんな死んでた!」
ウルリカは必死に叫ぶ。だが村人たちの恐怖は消えない。
「でもそいつのせいで皆おかしくなったんだ!」
「まだ寝込んでる奴だっているんだぞ!」
「ウルリカ、お前だって苦しんでただろ!」
その言葉に、ナクトの呼吸が止まる。
――ぼくが、追い払った?
――ウルリカを、苦しめた?
何を言っているのか分からなかった。昨夜の記憶が曖昧すぎる。だが、村人たちの反応だけは嘘に見えなかった。
「……ウルリカ」
ナクトは震える声で彼女を見る。
「これ……どういうことなの……?」
ウルリカはすぐには答えなかった。ただ、苦しそうに目を伏せる。そして数秒後、ゆっくりナクトを見つめ返した。
「……やっぱり、覚えてないんだね」
その声音には、恐怖も困惑も混ざっていた。けれど同時に、ナクトを見捨てきれない優しさも残っている。
ウルリカは小さく息を吐くと、ナクトの手を掴んだ。
「……あっち行こ。ここじゃ話せない」
ナクトは何も言えなかった。ただ、彼女に引かれるまま歩き出す。背後から突き刺さる村人たちの視線だけが、いつまでも背中へ張り付いていた。
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しばらく歩き続けると、二人は村外れを流れる川辺へ辿り着いた。
山から流れてきた冷たい水が、絶えずさらさらと音を立てている。空は相変わらず厚い雲に覆われており、水面に映る景色もどこか薄暗かった。
ウルリカはそこで足を止める。
だが、すぐにはナクトの方を見ようとしなかった。川の向こう岸を見つめたまま、小さく口を開く。
「……昨日は、ありがとう」
風に溶けそうなほど小さな声だった。
それでも、ナクトの耳にははっきり届いた。
「……ぼく、昨日なにかしたのかな」
ナクトは不安そうに視線を落とす。
「村のみんな、すごく怒ってたし……」
自分でも情けないと思うほど弱々しい声だった。
するとウルリカは、少しだけ沈黙した後、ぽつりと呟く。
「……ナクトって、やっぱり」
そこでようやく振り返り、ナクトの瞳をじっと見つめた。
薄い紫色の瞳。
だが、こうして近くで見なければ気づけないほど淡い色合いだった。普段は灰色にも見えるその瞳が、今はどこか不思議な光を宿しているようにも感じる。
「ぼ、ぼくが……何?」
急に距離を詰められ、ナクトは思わずのけ反った。ウルリカはそんな反応を見て、ふっと小さく笑う。
「……ううん。なんでもない」
それ以上は言わず、彼女は川辺へしゃがみ込んだ。そして水面に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、静かに続ける。
「ねえ、ナクト」
「……?」
「一緒に、この村を出ない?」
ナクトは目を瞬かせた。あまりにも突然だった。
「……え」
「まあ、あなたの場合は正確には”追放されるのが確定してるから”なんだけどね」
ウルリカは冗談めかして笑おうとさせると、ナクトは視線を伏せた。
確かに、自分はもうこの村には居られない。村人たちの目を見れば、それくらい分かった。
けれど。
「ウルリカまで出ていく必要ないよ」
ナクトは小さく首を振る。
「ぼく、一人で出ていくから」
今ならまだ間に合う。ウルリカなら、きっと村のみんなとの信頼を取り戻せる。自分と関わらなければ。
――一人で出ていく、か。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく冷えた。孤児院を追われ。魔法学校を追われ。そして今度は、この村からも。まるで、自分には居場所が存在しないみたいだった。ナクトは曇天を見上げる。灰色の空は、どこまでも重く広がっていた。
すると。
「ふふっ」
隣で、ウルリカが吹き出した。
「え……?」
「だって、その顔」
ウルリカはおかしそうに肩を震わせる。
「“捨てられた子犬です”って顔してる」
「そ、そんな顔してないよ……」
「してるしてる」
くすくす笑いながら、ウルリカは立ち上がった。
「あなた、また行き倒れるわよ? この前みたいに」
「うっ……」
その言葉は見事に胸へ突き刺さった。ナクトは露骨に視線を逸らす。そんな反応を見て、ウルリカはどこか満足げに笑った。
「私ね、治癒魔法もちょっと使えるの」
そう言いながら、自慢げに杖を軽く回す。
「だから貧弱なナクトには、ぴったりの仲間だと思うわよ?」
「……仲間?」
ナクトは呆然と呟いた。その言葉を向けられたのが、あまりにも久しぶりだったからだ。
「そう、仲間」
ウルリカは当然のように頷く。
「だって、冒険に出るんでしょ?」
「ぼ、冒険って……」
ナクトは困惑したように目を泳がせた。
「ぼく、目的とかないし……」
するとウルリカは腕を組み、「うーん」と大げさに悩み始める。そして数秒後、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、“困ってる人を助ける旅”で!」
「……ざっくりしすぎじゃないかな」
「細かいこと気にしてたら楽しくないじゃん! それに、私も外に出て色んな景色を見て周りたいんだよね」
その眩しい笑顔を見ていると、不思議と胸の重さが少しだけ軽くなる気がした。
「じゃ、私は準備してくるから!」
ウルリカは勢いよく村の方を指差す。
「ナクトは門の外で待ってて。この川沿いに歩けばすぐ着くから!」
「え、え!? ちょ、ちょっと待って、そんな勝手に――」
ナクトが慌てて引き止めようとする。だが、ウルリカはもう駆け出していた。
「すぐ戻るからーー!!」
元気な声だけを残し、彼女は村へ走っていく。その背中を見つめながら、ナクトはふと目を細めた。一直線に突っ走る姿をジーンと重なった。
その時、川のほとりから二羽の鳥が飛び立った。




