7.死霊の翼
数日間、ナクトはウルリカに引き留められるまま、ワトフィラムの村で暮らしていた。
とはいえ、最初の頃のナクトは、ほとんど家から出ようとしなかった。
慣れない土地。知らない人々。笑い声に満ちたこの村の空気は、彼にとってどこか眩しすぎたのだが、ウルリカはそんなナクトを放っておかなかった。
「ほら、ずっと籠ってるとカビ生えるよ!」
そう言って無理やり外へ連れ出しては、畑仕事をしている農夫へ紹介し、肉を捌いている狩人のところへ連れて行き、時には子どもたちの輪の中へ押し込んだ。
最初こそナクトは露骨に嫌そうな顔をしていたが、ウルリカはまるで気にしない。
その強引さに振り回されるうちに、気づけばナクトも少しずつ村人たちと言葉を交わすようになっていた。
野菜を運ぶ手伝いをしたり、薪を積んだり、狩人が持ち帰った獣を解体する様子を遠巻きに眺めたり。
ほんの些細なことばかりだったが、それでも孤児院と魔法学校しか知らなかったナクトにとっては、新しい世界だった。
何より、この村の人々は誰も彼を恐れなかった。
それが、ナクトには少しだけ嬉しかった。
そしてウルリカもまた、そんな彼の変化を見て、どこか満足そうに笑っていた。
――まるで、監視対象が上手く村へ溶け込んでいることを確認するように。
そんな穏やかな日々が数日続いたある夜。村が静寂に包まれ、人々が眠りにつこうとしていた、その瞬間だった。
「魔物だ!!」
見張り台の方角から、怒号が夜空を切り裂く。
「魔物が来たぞ!! 女と子どもは避難塔へ! 男どもは武器を持って前へ出ろ!!」
村中へ緊張が走った。
直後――。
ドドドドドドドッ!!
地面を揺らす轟音が響き始める。まるで巨大な獣の群れがこちらへ一直線に迫ってきているかのようだった。
家々の灯りが次々と点き、人々が慌ただしく飛び出していく。
泣き叫ぶ子ども。怯える女たち。武器を掴み、必死に前線へ向かう男たち。
その混乱の中で、ナクトだけが部屋の隅で身体を縮こませていた。
怖かった。ただただ、怖かった。
すると勢いよく扉が開き、ウルリカが飛び込んでくる。すでに彼女は杖を握っていた。
「ナクト!!」
額には汗が滲み、息も荒い。
「逃げて! ここは私たちがどうにかするから!」
それだけ言い残し、ウルリカは再び外へ駆け出していく。
扉が閉まる。
静寂。
そしてすぐに、外から怒号と悲鳴が響き始めた。
――逃げて。
――早く。
ナクトは布団を握り締める。ぼくは、また逃げるのか。ジーンたちの時みたいに助けてもらうだけで。守られるだけで何もできずに。
外では剣戟の音が鳴り響いていた。魔物の咆哮。誰かの悲鳴。何かが壊れる音。村が壊れていく音だった。
「ぼくに……できること……」
ナクトは震える声を漏らす。
剣も使えない。魔法だって分からない。戦ったことすらない。そんな自分が外へ出たところで、魔物に殺されるだけだ。頭では分かっていた。
それでも。
「皆!! 避難塔への道だけは絶対に死守するわよ!!」
外から響いたウルリカの声に、ナクトは顔を上げた。窓の隙間から見えたのは、杖を振るい、必死に魔法を放つウルリカの姿だった。
地面から伸びた光の鎖が魔物の足を拘束し、その隙に男たちが剣を振るっていく。
拘束魔法、中級魔法だ。
あれほどの魔法を扱えるのなら、ウルリカが自分を“強い”と言っていたのも納得だった。
だが数が違いすぎた。闇の中から次々と現れる魔物たち。一体倒しても、また次が来る。このままでは持たない。
そう思った瞬間だった。
「……きゃっ!!」
ウルリカの身体が大きく揺れる。魔物の一撃を避けきれず、地面へ倒れ込んだのだ。
「ウルリカ!!」
男たちが叫ぶ。だが、その男たちもすでに満身創痍だった。
囲まれる。逃げ場がない。絶体絶命だった。
……ぼくは、逃げろって言われた。
……ぼくは、この村の人間じゃない。
ナクトは俯いたまま、その場へしゃがみ込む。逃げればいい。そうすれば助かる。
なのに。
瞼の裏に浮かんだのは、二人の顔だった。
『ナクト! おれたちがいるから大丈夫だ!』
『私も一緒だから。安心してね』
ジーンとリゼア。
あの日、自分を支えてくれた二人。
ナクトの指先が、小さく震える。
「……にげない」
か細い声だった。
次の瞬間、ナクトは立ち上がっていた。ふらつく足で、ゆっくりとウルリカの方へ歩き出す。魔物たちが一斉に振り返った。赤黒い瞳が、ナクトを捉える。
それを見たウルリカの顔が絶望に染まる。
「ナクト!! 逃げてぇっ!!」
だが、もう遅かった。
魔物たちが一斉に飛びかかる。牙に爪、咆哮。それら全てがナクトへ殺到する。
次の瞬間。
魔物たちの身体が、音もなく崩れ落ちた。
いや。
崩れたのではない。塵となって、夜空へ溶けるように消えていったのだ。
黒紫色の靄が、ナクトの周囲を渦巻いていた。それはまるで、生きている“死”そのものだった。
冷たい。
暗い。
見ているだけで、本能が拒絶するような禍々しい気配。
そしてナクトの背後にはいつの間にか、巨大な黒紫の翼を持つ“何か”が浮かび上がっていた。人の形にも見えるが、人ではない。輪郭すら曖昧な死霊の群れが、ナクトを守るように蠢いている。
「ナ、クト……まさか」
ウルリカは青ざめた顔で、その姿を見つめていた。そこにいたのは、数日前まで怯えてばかりいた少年ではなかった。紫色の瞳に、底のない闇を宿した存在。
まるで――死者を従える王のようだった。




