6.知らない温もり
何日歩き続けただろうか。
ナクトは果ての見えない草原を、あてもなく彷徨っていた。
目的地はない。追われるように国を飛び出し、ただ「生き延びる」ためだけに足を動かし続けていた。
空は高く、風は冷たい。
だが、そんな景色を眺める余裕など、もうナクトには残されていない。
食料はとっくに尽き、水もない。
孤児院では、食事も寝床も当たり前のように用意されていた。だが今のナクトには、それを確保する術すら分からなかった。
喉が焼けるように痛い。視界もぼやけ始め、足取りはとうに覚束なくなっている。
「……はぁ……っ、は……」
息を吸うたび胸が軋み、膝が震える。限界だった。ナクトは力なく草原へ膝をつき、そのまま前のめりに倒れ込む。乾いた草の感触が頬へ触れた。
その瞬間――。
ドクン、と。心臓が脈打つような鈍い音が、身体の奥で響いた。すると、ナクトの身体から黒紫色の魔力が滲み出す。それは煙のように揺らめきながら周囲へ広がり、触れた草花を一瞬で枯らしていった。青々としていた草原が、そこだけ腐り落ちたように黒ずんでいく。
『――――』
耳元で、何かが囁いた。男とも女ともつかない、掠れた声。何人もの声が重なり合ったような、不気味な響きだった。
だが身体は鉛のように重く、もう起き上がることすらできない。意識が沈んでいく。
遠くで蹄の音が聞こえた気がした。
「……っ、誰か倒れてる!?」
今度は、はっきりとした女の声だった。
「大丈夫!?」
駆け寄ってくる足音。だがナクトは、返事をする力すら残っていない。
「……う、ぅ……」
掠れた呻きだけが漏れる。
赤髪の女は馬から飛び降りると、倒れているナクトの姿、そして周囲一帯だけ枯れ果てた草原を青い瞳で見て眉をひそめた。
「……何これ」
警戒するような視線。それでも彼女は、倒れたナクトの首元へ手を伸ばす。
「……生きてる」
小さく息を吐いた後、女は迷うように空を見上げた。そして観念したように肩をすくめる。
「放っておいても死ぬわね、これ」
そう呟くと、彼女は気を失ったナクトを抱え上げ、馬の後部へ固定した。その直後、馬が草原を蹴る。沈みかけた夕陽の中を、二つの影が駆け抜けていった。
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「おーい、生きてる?」
耳元へ飛び込んできたのは、鈴が鳴るような明るい女の声だった。
「……ん……」
重たい瞼をゆっくり持ち上げる。ぼやけた視界の先に、赤髪の少女が覗き込んでいた。
「おっ、起きた!」
少女はぱっと表情を明るくする。
「よかったあ。全然目を覚まさないから、死んじゃうんじゃないかと思ったよ」
ナクトはぼんやりとした意識のまま身体を起こそうとした。だが、腕に力が入らない。
「わっ、まだ無理しちゃだめ!」
少女は慌ててナクトの肩を押さえ、再び寝かせる。
「まだ顔色悪いんだから、ちゃんと休まないと」
「……ここ、は」
掠れた声で呟きながら、ナクトは周囲を見渡した。木造の小さな部屋だった。壁には干した薬草が吊るされ、窓からは柔らかな陽の光が差し込んでいる。鼻をくすぐるのは、どこか懐かしい草木の匂いだった。
「ワトフィラムだよ」
少女はにっと笑う。
「私の村。すっごく田舎だけどね」
その笑顔は眩しいほど真っ直ぐで、ナクトは思わず目を逸らした。
「えっと、きみ、名前は?」
少女はベッドの横へ腰掛ける。
「私はウルリカ、よろしくね」
そう言って、自分の胸をぽんと叩いた。
「……ナクト」
少しだけ間が空く。
「ナクト、王都から来た」
しまった。
”王都”など余計なことなど言うべきではなかったと、ナクトは思った。
その瞬間。
「えっ、王都!? いいなあ! やっぱりすごいんでしょ!?」
ウルリカの目がぱっと輝き、彼女は身を乗り出した。
「私、こう見えて結構強いんだよ? いつか王都の騎士団に入りたいなーって思ってるんだ!」
――騎士団。
その言葉を聞いた瞬間だった。ナクトの身体がびくりと震える。背筋を冷たいものが這い上がり、一気に血の気が引いていく。
脳裏へ浮かぶのは、黒いローブ。処刑。逃げろという声。
そして、ジーンとリゼアの姿。
「……っ」
無意識に布団を強く握り締めていた。
「あれ?」
ウルリカが不思議そうに首を傾げる。
「私、なんか変なこと言った?」
「……いや」
ナクトは視線を逸らす。
「別に」
そう言うと、逃げるように布団へ潜り込んだ。
ウルリカは数秒だけ困ったように瞬きをしていたが、やがて小さく笑う。
「まあ、いっか!」
立ち上がり、部屋の扉へ向かう。
「とりあえず、今日はゆっくり休んでね。何かあったらいつでも呼んでいいから!」
ぱたん、と扉が閉まる。静けさが戻った部屋の中で、ナクトは布団の中から小さく息を吐いた。どうして、助けたんだろう。
そんな疑問が、頭の奥で静かに渦巻いていた。
翌日も、その翌日も、ウルリカは朝昼晩とナクトのもとへ顔を出した。食事を運びながら他愛ない話をしたり、村のことを話して聞かせたり、とにかくナクトへ打ち解けようとしているのが伝わってくる。そんなウルリカの看病もあってか、ナクトの体調は思っていたより早く回復していった。
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数日後。
久しぶりに家の外へ出たナクトは、目の前へ広がる光景に思わず立ち尽くした。
市場には野菜を並べる農家たちの声が飛び交い、狩人たちは仕留めた獣を解体しながら笑い合っている。
子どもたちは泥だらけになりながら走り回り、あちこちから明るい笑い声が聞こえてきた。
孤児院のあった静かな農村とは違う。ここには、人の熱があった。
皆、生きることを楽しんでいるように見える。
「何ぼーっとしてるの?」
不意に肩をぽんぽんと叩かれる。
振り向いた瞬間、頬をつん、と指で突かれた。
「わっ」
「ふふっ、変な顔」
そこには、悪戯っぽく笑うウルリカが立っていた。
「もう大丈夫なの? ナクト」
「……うん。色々ありがと」
ナクトは気まずそうに頬を擦る。
「いいのいいの」
ウルリカは両手を頭の後ろで組みながら笑った。
「困ってる人を助けるの、この村の信条だからさ」
その言葉を聞き、ナクトは少しだけ目を伏せる。
――助ける。
その言葉が、自分には少し眩しく感じた。
「そういえばさ」
ウルリカは何気ない調子で口を開く。
「ナクトって、なんであんな草原で倒れてたの?」
「……」
ナクトの肩が僅かに揺れた。
「別に。理由なんてないよ」
そう言って視線を逸らす。するとウルリカは数秒だけナクトを見つめ、それ以上は追及しなかった。
「そっか」
あっさりと引き下がる。
だがその瞳には、僅かな引っ掛かりが残っていた。あの時、ナクトの周囲だけ不自然に枯れ果てていた草原。
あれが、ただの偶然とは思えなかった。
「急いでどこか行く予定とかある?」
「……ない、けど」
「ならさ、もう少しここにいなよ」
ウルリカは明るく笑う。
「村の人たちも優しいし、しばらく休んでた方がいいって」
「……いいの?」
「当たり前じゃん」
そう言いながら、ウルリカは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「その……ちょっと放っておけないっていうか」
誤魔化すように、慌てて別の方向を指差す。
「あ! あそこの空き家、好きに使っていいから!」
店並びの端にある、小さな木造の家。ナクトはその家を見つめた後、小さく頷いた。
「……ありがとう」
ウルリカは笑う。だがその胸の奥では、あの黒紫の光景が、まだ静かに引っ掛かり続けていた。




