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10.夢みたいな夜


『……私のことが見えているの?』


女が一歩近づくたび、足元の砂が風に撫でられたようにふわりと舞い上がる。ナクトの顔はみるみる青ざめていった。一方、何も見えていないウルリカは状況が理解できず、その場にしゃがみ込んでしまう。


『見えているのでしょう?』


女は静かに囁いた。


「だ、誰ですか……」


ナクトの声は震えていた。


「な、な、ナクト! 変なこと言わないで! は、早く戻ろうよぉ……!」


ウルリカは今にも泣き出しそうな顔でナクトの服を掴む。だが女は敵意を見せない。


『ナクト。君の名前はナクトというのね』


女は柔らかく微笑んだ。


『驚かせてしまってごめんなさい。私はあなたたちの敵ではありません。決して危害は加えないわ』


そう言って、女はゆっくりと両手を広げる。何も持っていないことを示すように。


「……誰なんですか。あなたは一体……」


ナクトは警戒を解かないまま問いかけた。すると女は、どこか寂しそうに目を細める。


『幽霊――簡単に言えば、そういうものよ』


「ゆ、幽霊……?」


ナクトが息を呑む。


「だから何言ってるのよぉ! も、戻ろう……?」


ウルリカはついに限界を迎え、そのまま気を失ってしまった。


「ウルリカ!?」


慌てて支えるナクトを見ながら、女は少し困ったように笑う。


『あの子には見えないみたいね』


女は静かに言った。


『ねえ、ナクトくん。少しだけ、話を聞いてくれない?』


「……話?」


ナクトはなおも疑いの目を向ける。その視線を受け、女は肩を落とした。


『そうよね。初めて会った相手を簡単に信じられるわけないわよね……』


しゅん、とした空気と共に、周囲の温度が僅かに下がった気がした。


「……少しだけなら」


足がすくみ、その場から動けないままナクトは答える。すると女の顔がぱっと明るくなった。


『ありがとう!』


その笑顔は、どこか普通の人間らしかった。


『ねえ、ナクトくん。幽霊って、どうしてこの世に残ると思う?』


「えっと……未練、とかですか?」


ナクトは気を失ったウルリカを庇うように前へ立つ。


『そう。たぶん、それ』


女は小さく頷いた。


『私ね、昔、仲間たちと冒険をしていたの』


懐かしむように目を細める。


『そしてこの森で野宿をした。……でも、夜中に魔物に襲われたの』


「魔物……? でもここって、魔物は出ないんじゃ……」


『今は、ね』


女は静かに微笑む。


『あれは二十年前の話よ。事件の後、この辺り一帯には討伐隊が派遣されたの。だから今は安全になってる』


「そういうことだったんですね……」


ナクトは小さく息を吐いた。


「……それで、未練って何なんですか?」


その問いに、女は俯く。


『みんな……私だけでも逃がそうとしてくれたの』


声が少し掠れる。


『だから私は、生き残ってしまった』


「……罪悪感、ですか」


ナクトは自分自身と重ねるように目を伏せた。


『そうかもしれないわね』


女は苦く笑う。


「でも、どうしてあなたはここにいるんですか? 逃げきれなかったわけじゃないんですよね?」


『逃げることはできたわ』


女はゆっくりと空を見上げる。木々の隙間から覗く月が、その半透明の身体を淡く照らしていた。


『……でもね、気づいたらまた、この森へ戻ってきていたの』


静かな声だった。


『罪悪感が、私の足をここへ引き戻したのよ』


冷たい夜風が吹く。


『……森へ戻った時、何があったと思う?』


女の霊は、ナクトを試すように微笑んだ。


「……仲間の人たちの死体、ですか?」


『それなら、まだよかったわ』


女の霊は小さく首を振る。


『何もなかったの。血も、死体も、荷物さえも』


その目が、二十年前の森を見つめるように細められる。


『だから私は信じたの。みんな生きてるって。必死に森の中を探し回ったわ』


夜風が木々を揺らし、ざわざわと葉擦れの音が響く。

ナクトは唇を引き結びながら問いかけた。


「……率直に教えてください。あなたはどうして死んだんですか。何を未練にして、ここにいるんですか」


女の霊は少しだけ困ったように笑う。


『回りくどかったわね。……人と話すの、久しぶりだったから』


そして、静かに告げた。


『私は――仲間に殺されたの』


「……え?」


ナクトは息を呑む。木々のざわめきが、急に大きくなった気がした。


「仲間、に……?」


『そう。でも、もう人じゃなかった』


女の霊の声は震えていた。


『私たちを襲った魔物は特異種だったの。喰らった人間の姿を真似る魔物。仕草まで似せる、本当に質の悪い魔物よ』


ナクトは肩を振るわせる。


『私は騙されたの。“助けに来た仲間”だと思って近づいて……そのまま殺された』


「そんな魔物が……」


ナクトは思わず後ずさる。


『ねえ、ナクトくん』


ルーナは静かに遠くを指差した。木々の隙間、その奥。暗闇にぽっかりと口を開けた洞窟が見える。


『あそこに、彼らがいるの』


「……彼ら?」


『私の仲間だったもの』


女の霊は胸を押さえる。


『あの姿を見るたび、胸が張り裂けそうになる。でも、私一人じゃどうにもできなかった』


苦しそうに顔を歪めながら、それでも女の霊はナクトを見る。


『だからお願い。彼らを、魔物の姿から解放してあげて』


「でも……街の討伐隊が来たんですよね?」


『ええ。でも、その時だけは上手く人間のふりをしたのよ。だから見逃された』


なるほど、とナクトは思った。話は理解できる。だが、自分に何ができる。ウルリカは気を失っている。自分には戦う力なんてない。


「ぼくは戦えません。魔法もろくに使えなくて……。ごめんなさい。でも明日、すぐに討伐隊の人に話をして力になってもらうようにします! だから明日まで待っててもらっていいですか?」


『そうよね、急過ぎたし、ナクトくん一人に押し付けるなんてひどい話だものね。とりあえず今晩はその子を連れて帰ってね、本当はちゃんと謝らないとだめなんでしょうけど……』


「その辺はぼくに任せて下さい。ではまた明日――」


その時だった。


――ザザザザザ。


森の奥から、何かが草を掻き分ける音が響く。


「っ……!」


ナクトは反射的に振り返った。闇の中から現れたのは、三つの魔物らしき影。


いや――。


「この魔物って……」


月明かりに照らされた“それ”は、二足歩行をしていた。身体には、ボロボロに裂けた冒険者の服。顔は歪み、口元は耳まで裂け、不気味な笑みを浮かべている。


『……私の仲間たち。違うわね』


女の霊が苦しそうに呟く。


『仲間の皮を被った、魔物よ』


魔物たちは獣のような声を上げ、一斉に飛びかかってきた。

だめだ。こんなの、自分じゃ。魔物たちが獣のような叫び声を上げ、一斉にナクトへ飛びかかった。


その瞬間だった。


ドクン――。


ナクトの胸の奥が、焼けるように熱を帯びる。


「っ……!?」


心臓が大きく脈打った。視界の奥で、紫色の光が揺らめく。それはまるで、暗闇の中で誰かの感情が溢れ出してくるようだった。


次の瞬間。


魔物たちの動きが、ぴたりと止まる。


『……あれ?』


一体の魔物が苦しそうに頭を押さえた。


『うぅ……』


するとみるみるうちに魔物が本来の人の形に戻っていく。


裂けていた口元から、掠れた声が漏れる。


『……ルーナ……』


「……え?」


ルーナが目を見開く。すると別の魔物も、混乱したように周囲を見回した。


『ルーナか……?』


『よかった……生きてたんだなぁ……』


その声は、先ほどまでの獣の唸り声ではなかった。確かに、人の声だった。魔物たちは困惑したように自分たちの身体を見下ろしている。まるで長い悪夢から、ほんの一瞬だけ目覚めたかのように。


「こ、これって……どういうこと」


ナクトは呆然と呟く。振り返ると、ルーナが震える肩を押さえながら仲間たちを見つめていた。


『分からない……でも、会えた』


その頬を、涙が静かに伝う。彼女は泣き笑いのような表情を浮かべた。


『皆に、もう一度会えた……』


「で、でも……ぼく、何もしてない……」


ナクトは困惑したまま首を振る。


『ううん』


ルーナは優しく首を横に振った。


『たぶん、きみが繋いでくれたの』


「繋いだ……?」


『彼らの中に残っていた想いを』


ルーナはナクトを見つめる。その瞳には、恐怖ではなく、確かな感謝が宿っていた。


『ありがとう、ナクトくん』


その身体が、足元から淡い光となって崩れ始める。


『……あなた、冥継術士でしょう』


「え……?」


『私が消える前に、手を握って』


ナクトは戸惑いながらも手を伸ばした。ルーナはその手をそっと握る。

すると、彼女の身体から淡い光が流れ出し、ゆっくりとナクトの中へ溶け込んでいった。

温かい。懐かしい。誰かの記憶のような感覚だった。

光が流れ終わると、ルーナは満足そうに微笑む。


『この先、少しでも役に立てたら嬉しいわ』


握っていた手が、静かに離れる。


『私、行くね。本当にありがとう、ナクトくん』


その瞬間。ルーナと仲間たちの身体が光へ変わり、夜空へ溶けるように昇っていく。

彼らは笑い合っていた。


まるでこれから始まる冒険に胸を躍らせる、旅立ち前の冒険者たちのように……。



△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽



「ん……んん……。あれ……ここって……」


朝日が木々の隙間から差し込む中、ウルリカが昨夜野宿していた大木の下でゆっくりと目を覚ました。


「おはよう、ウルリカ」


すぐ隣では、ナクトが果実の皮を小刀で器用に剥いていた。


「あ……おはよう、ナクト」


ウルリカはまだぼんやりしたまま身体を起こす。昨夜の夢のようなものが少しずつ蘇ってきた。

暗い森。ナクトが“何か”を見ていたこと。誰かと話していたこと。そして、自分が気絶したこと。


「……昨日って、その……」


恐る恐る尋ねようとしたところで、ナクトが先に口を開いた。


「ウルリカ、お腹すいてるでしょ? ちゃんと食べないと力出ないよ」


そう言って、剥き終えた果実を差し出す。


「早く食べて、出発しよう」


「え? あ、うん……そ、そうだね」


ウルリカは果実を受け取りながら、じっとナクトを見つめた。妙に落ち着いている。何もなかったのだろうか。


「あ、そうだ」


ナクトは思い出したように傍らへ置いていた束を持ち上げた。


「これ、さっき採ってきたんだ。役に立つと思う」


「ん?」


ウルリカは差し出された草を見て目を瞬かせる。


「これ……薬草?」


葉の形も、香りも、間違いない。しかも数種類混ざっている。


「ナクトって薬草の見分けつくんだね」


ウルリカは感心したように薬草を眺める。


「ぼくも昨日までは全然分からなかったんだけどね」


ナクトは首を傾げた。


「今朝、森を歩いてたら“これだ”って感じがしたんだ」


「……なにそれ。変なの」


ウルリカは呆れたように笑いながら果実へ齧りつく。

そして次の瞬間。


「うわっ!? すっぱ!!」


顔をぎゅっとしかめた。


「え、そんなに?」


ナクトも試しに一口齧る。


「うわ、ほんとだ……酸っぱ……!」


強烈な酸味に顔を歪める。その様子を見て、ウルリカが思わず吹き出した。



朝の森に、小さな笑い声が響く。この先の野宿、だいぶ大変そうだな。

酸っぱい果実を噛み締めながら、ナクトはぼんやりと思った。




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