28.仲間という言葉
「待っていたぞ」
男の姿は、足元しか見えなかった。
ナクトはその声に導かれるように一歩踏み出すが、近づいたはずなのに男の姿はまた遠ざかっていった。
「……え?」
ナクトがもう一歩進む。
すると男もまた一歩、後ろへ下がる。
まるでナクトに自分の姿を見せるつもりがないかのようだった。
「誰ですか……?」
ナクトは足を止める。
「ぼくを……待っていたんですか?」
「そうだ」
男は迷うことなく答えた。
「私は、きみを待っていた」
「…………」
その声を聞いた瞬間、ナクトの胸の奥に小さな違和感が生まれた。
どこかで聞いたことがあるのか?
いや聞いたことがないのか?
どうしても思い出せない。
「……ぼくと会ったことがありますか?」
「ある、とも言えるのかもしれない」
「ある、とも……?」
ナクトは眉を寄せた。
「どういう意味ですか?」
「それを今、きみに話す必要はないだろう」
男は穏やかに答えた。
「……どこで会ったんですか?」
「それも言えないな」
「どうしてですか!?」
ナクトの声が僅かに強くなる。
「ぼくの記憶にあなたがいるってことは……あなたは、ぼくの過去に触れたことがある人なんですよね?」
「…………」
男は答えなかった。
その沈黙が、まるでナクトの言葉を肯定しているようだった。
「まあ、そう固くなるな」
男はふっと笑う。
「旅はどうだ?」
「……え?」
「順調か?」
あまりにも唐突な問いだった。
ナクトは戸惑いながらも、少しだけ考える。
「……まあ」
「そうか」
男の声が、ほんの僅かに柔らかくなった。
「それなら……安心したよ」
「安心?」
ナクトはその言葉に引っかかった。
「どうしてあなたが、ぼくの旅を心配するんですか?」
「…………」
「あなたは、ぼくのことを知っているんですよね?」
「…………」
「だったら――」
「私はきみが……」
男が口を開くと、そこで言葉が途切れた。
「…………」
「……きみが?」
ナクトが聞き返すと、男は一瞬だけ沈黙した。
「いや……なんでもない」
「…………」
ナクトは男を見つめた。
やはり、おかしい。
この男は自分を知っている、のかもしれない。
まるで――
ずっと遠くから、自分の歩いてきた道を見つめていたような。
「煩悶の樹海」
男の声が静かに響く。
「こんな場所で、きみは何をしている?」
「それは……」
「早く戻るべきだ」
「……え?」
男の口調が僅かに変わった。
「今ならまだ間に合う」
ナクトはその言葉に違和感を覚える。
「何が……間に合うんですか?」
「私を拒み続ければ、きみはどんどん現実から遠ざかっていく」
「…………」
「この樹海は、きみの心の奥底にあるものを引きずり出している」
男の声が、暗闇の中に沈んでいく。
「過去も、恐怖も、後悔も……きみが目を背けてきたものすべてをな」
ナクトは黙って男を見つめる。
「このまま樹海に飲み込まれれば、きみは現実と幻の境界すら分からなくなる」
「…………」
「だから戻れ」
「…………」
「今ならまだ、戻れる」
男の言葉には、どこか妙な説得力があった。
まるでナクトがここで何を見て、何を感じ、どこまで追い詰められているのか――すべて知っているかのようだった。
「……あなたは」
ナクトはゆっくりと口を開く。
「ぼくのことを、どうしてそんなに気にかけるんですか?」
「…………」
「ぼくが誰なのか知っているんですか?」
「…………」
「それとも……」
ナクトは一歩、男へ近づく。
「あなたは、ぼくに何かをさせたいんですか?」
男の足が止まった。
「…………」
初めてだった。
男が、ほんの僅かに言葉を失ったのは。
「私は――」
男はゆっくりと口を開く。
「きみの味方だ」
「…………」
「それだけは信じていい」
ナクトは男の言葉を聞きながら、なぜか胸の奥に薄い寒気を覚えた。
優しい言葉だった。
なのに――
どうしてだろう。
その言葉の奥には、何か別のものが隠されている気がした。
「きみは、こんなところで樹海に飲み込まれてしまうような存在ではない」
「……存在?」
ナクトが聞き返す。
「今……あなたは、ぼくを『存在』って」
「…………」
男は黙り込む。
ナクトはさらに問いかけようとした。
「あなたは一体――」
「もう行け」
「え?」
「きみは、もっと旅をするべきだ」
男の声は静かだった。
「もっと人を見ろ」
「…………」
「もっと世界を知れ」
ナクトは男を見つめる。
「そして――」
男は一度だけ、ナクトへ振り返った。
しかし、その顔はやはり見えない。
「自分が何者なのかを、自分自身で知るんだ」
「…………」
ナクトは何も言えなかった。
「どうして……」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「どうして、ぼくにそんなことを言うんですか?」
男は答えない。
「あなたは……ぼくに何をさせたいんですか?」
「…………」
「あなたは誰なんですか!?」
ナクトの声が樹海に響き渡る。
しかし男は、もう答えなかった。
ただ、背を向けたまま――
「……戻れ、ナクト」
その一言だけを残した。
「…………」
ナクトの瞳が大きく見開かれる。
なぜ――
どうしてこの男は、自分の名前を知っている?
その疑問が浮かんだ瞬間、男の姿はゆっくりと闇の中へ溶けていった。
「待って!」
ナクトは駆け出す。
しかし――
その姿を追いかけようとした瞬間、視界が大きく歪んだ。
男の声だけが、遠くから聞こえてくる。
「……また会おう」
その言葉を最後に、すべてが暗闇に包まれた。
————————————————
「ナクト! 起きて……あ!」
ウルリカは今にも泣き出しそうな顔で、ナクトの手を握りしめていた。
その手の温もりに引かれるように、ナクトはゆっくりと瞼を開く。
「……ウルリカ?」
「ナクト……!」
ウルリカの表情がぱっと明るくなる。
そのすぐ隣では、片膝をついたキールがナクトの顔をじっと見下ろしていた。
「ようやく起きたようだな」
キールはナクトが意識を取り戻したことを確認すると、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……随分と長かったな」
「そうなんですか?」
ナクトは身体を起こそうとした。
しかし、まだ全身に力が戻っていない。
「……ぼくも、気を失っていたみたいだね」
「そうよ!」
ウルリカがすぐさま声を上げる。
「私が目を覚ましてから、ずっと起きなかったんだから!」
「ご、ごめんなさい……」
「もう……本当に心配したんだからね!」
ウルリカはナクトの手を握ったまま、少しだけ頬を膨らませる。
「でも……ぼくも心配したよ」
「え?」
「ウルリカが急に倒れちゃったから」
「…………」
ウルリカの表情が僅かに曇った。
けれど、それを隠すようにすぐに笑顔を浮かべる。
「……そ、そうね! お互い様ってことで!」
「うん」
「……はあ」
二人のやり取りを見ていたキールが、深いため息を吐いた。
「お前たちは、こんな場所でよくそんな呑気にしていられるな」
「なによ! ちゃんと起きたんだからいいでしょ!」
「そういう問題じゃない」
キールは樹海の奥へ視線を向けた。
「さっさと行くぞ」
「……そういえば」
ナクトがふとキールを見る。
「キールさんは、樹海に飲み込まれなかったんですか?」
「…………」
「ぼくたちは二人とも幻を見ました。でもキールさんはずっと起きていたみたいなので……」
「ああ」
キールは淡々と答えた。
「おれはもう、ここを攻略している」
「攻略……?」
「一度、ここを通ったことがある」
「じゃあ、その時も……」
ナクトは少し考えてから尋ねた。
「何かに取り込まれたんですよね?」
「ああ」
「その時は……仲間の人に起こしてもらったんですか?」
「仲間?」
キールの足が止まった。
「…………」
その声には、先ほどまでとは明らかに違う響きがあった。
ナクトは思わず口を閉じる。
「おれは誰かと旅をすることなんてない」
キールは前を向いたまま、低い声で言った。
「仲間に起こしてもらったわけじゃない」
「……じゃあ、どうやって?」
「自力で這い上がった」
キールは振り返らなかった。
「そんな惑わしに、いつまでも囚われているほど弱くはない」
「…………」
ナクトは何も言えなかった。
今のキールの言葉には妙な重さがあった。まるで、樹海の幻よりも―−
もっと深い何かを思い出しているようなその時だった。キールの横顔が、一瞬だけ曇った。
「…………」
ほんの僅かな変化だったが、ナクトはそれを見逃さなかった。
今まで見たことのないキールの表情。
怒りなのか、悲しみなのか。
それとも――
後悔なのか。
「キールさん……?」
「……なんでもない」
キールはそれだけ言うと、再び歩き始めた。
ナクトはその背中を見つめた。
聞いてはいけないことなのかもしれない。
そう思った。
けれど――
なぜだろう。
キールが一人でこの樹海を抜けたという言葉が、妙に引っかかっていた。
その背中が、ほんの少しだけ寂しく見えた。
「……行くぞ」
キールが振り返らずに言う。
「置いていくぞ」
「あ、はい!」
ナクトは慌てて立ち上がった。
「ほら、ウルリカも行こう」
「分かってるわよ!」
三人は再び歩き始める。
先頭を歩くキール。その後ろを追うナクトとウルリカ。やがて三人の姿は、深い木々の向こうへと消えていった。
ただ――
キールが一度だけ振り返ったことに、二人は気づかなかった。
その視線の先にあったのは、二人ではない。
誰もいない、深い樹海の奥だった。




