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29.湖のほとりの人影


三人は、深い樹海の中を進んでいた。

 木々はどこまでも続き、頭上を覆う枝葉が陽の光を遮っている。

 聞こえるのは、踏みしめる落ち葉の音と、時折どこか遠くで鳴く鳥の声だけ。


 しかし――


 彷徨っているという人間の姿は、一向に見つからなかった。


「……もう、見つけるのは不可能だろう」


 キールが足を止める。


「こんなに探してもいないんだ。案外、そいつは一人で脱出できたのかもしれないぞ」


「そんな……」


 ナクトは辺りを見渡した。どこかに人がいるかもしれない、助けを求めているかもしれない。

 そう思ってここまで歩いてきた。

 なのに、何も見つからない。


「……まあ、それならそれでいいんだけど」


 そう呟きながらも、ナクトの表情は晴れなかった。


「なによ」


 そんなナクトを見ていたウルリカが、キールを指差す。


「あんた、面倒臭いだけでしょ。ナクトを諦めさせようとしてるんじゃない?」


「は?」


 キールが眉をひそめる。


「面倒に決まっているだろう。おれはさっさとこんなところから出たいんだ」


「ほら!やっぱり!」


「何が『やっぱり』だ」


「キールさん」


「なんだ」


 キールがちらりとナクトを見る。

 ナクトは少しだけ迷った。

 それでも、意を決して口を開く。


「もう少しだけ、付き合ってもらえませんか?」


「だから、おれは――」


「大丈夫よ、ナクト」


 ウルリカが割って入る。


「この人、勝手についてくるストーカーさんだから」


「……」


 キールの口が止まった。


「ストーカーではない」


「じゃあ何よ?」


「最初から言っているだろう。向かっている方向が同じなだけだ」


「はいはい」


 ウルリカはニヤニヤと笑う。

 キールはその笑顔を見た瞬間、何も言わず視線を逸らした。


「……勝手にしろ」


「ならよかったです」


 ナクトはほっとしたように微笑む。

 そして、森の奥へと続く獣道を指差した。


「あっちに行ってみませんか?」


「……あ?」


 キールの眉が僅かに動く。


「こっちは道がないぞ」


「でも、普通の精神状態の人が、必ず整備された道を歩くとは限らないですよね」


「……」


「もしかしたら、何かに追われていたのかもしれないし。道を外れて逃げた可能性もあると思います」


 ナクトは真剣な顔で獣道を見つめる。

 ウルリカもその方向を見た。


「確かに……」


 少し考えてから、頷く。


「ナクトの言う通りかも。そっちに逃げ込んだ可能性だってあるわね」


「…………」


 キールの眉間に皺が寄る。


「……チッ」


「あっ!」


 ウルリカがすぐに振り返った。


「今、舌打ちした!」


「して何が悪い」


「なによ、あんた!」


「そりゃ舌打ちもしたくなるだろう」


 キールは獣道を睨みつける。


「おれはわざわざ、少しでも安全な道を選んで歩いていたんだぞ。それをここまで来て、よりにもよって一番危険そうな道へ進もうとするとはな」


「やっぱり面倒臭いだけじゃない!」


「当たり前だ!」


 キールは即答した。


「おれは一刻も早くここを出たいんだよ!」


「だったら帰ればいいでしょ!」


「…………」


「ほら、何も言えないじゃない!」


「……お前は本当に騒々しい女だな」


「なによ!」


「お前と話していると疲れる」


「はあ!?」


「だが――」


 キールはそこで一度、ナクトを見る。

 ナクトは二人の言い争いを見ながら、困ったように笑っていた。


「こいつとの会話は、まだ成り立つ」


「……え?」


 ウルリカが固まる。


「おれにとっては、それだけの違いだ」


「ちょ、ちょっと待って!」


 ウルリカがキールを指差す。


「今の聞いた!? ナクトに対する態度と私に対する態度、明らかに違うじゃない!」


「そうか?」


「そうよ!」


「気のせいだ」


「絶対違う!」


「……ったく」


 キールは深々とため息を吐いた。


「お前といると、本当に疲れるな」


「もう知らない!」


 ウルリカはぷいっと顔を背けた。


「二人とも、落ち着いて」


 ナクトが慌てて二人の間に入る。


「じゃあ、三十分だけ……三十分だけでいいので、協力してもらえませんか? キールさん」


 ナクトはキールを見上げ、キールはそれを黙ってナクトを見る。

 ほんの僅かな沈黙。


 やがて――


「……さっさと行くぞ」


「ありがとうございます!」


 ナクトの表情が明るくなる。


「ほら!」


 ウルリカがすぐさまキールを指差した。


「やっぱり変じゃない! ナクトが頼んだらすぐ言うこと聞くじゃない!」


「……」


「絶対、ナクトのこと気に入ってるでしょ!」


「黙れ」


「図星なんだ!」


「黙れと言っている」


「ほらナクト! やっぱりこの人、絶対――」


「いいから行くぞ!」


 キールは二人に背を向け、獣道へと歩き出した。


「あ、待ってください!」


 ナクトが慌てて追いかける。


「ほら、ウルリカも!」


「分かってるわよ!」


 三人は再び、深い樹海の奥へと進んでいく。

 先頭を歩くキールの足取りは、相変わらず早い。


 けれど――


 先ほどまでよりも、ほんの少しだけ。

 三人の歩幅は近づいていた。



△▽△▽ △▽



「ん? ここの地面……何かを擦った形跡があります」


 ナクトはしゃがみ込み、地面に残された僅かな痕跡を指先でなぞった。


「猪か何かが歩いたんだろ」


 キールは興味なさそうに答える。


「ほら、あと十分だ」


「もう十分しかないの!?」


 ウルリカは腰に手を当て、頬をぷくりと膨らませた。


「そ、それなら……もう少しだけ進んでみよう」


 ナクトは立ち上がり、周囲を見渡す。

 ここまで来ても、誰かが助けを求める声は聞こえてこない。

 それでもナクトは、どうしても諦めきれなかった。


「……この先に小さな湖があるはずだ」


 キールが口を開く。


「そこへ行って、誰もいなければ引き返す。それでいいだろう」


「分かった!」


 ウルリカが頷いた。


 しばらく歩くと、木々の隙間から淡い光が差し込んできた。

 その先に――小さな湖があった。


「本当にあった……」


 ナクトが目を丸くする。


「嘘じゃなかったんだね」


 ウルリカはキールを見て、ニヤリと笑った。


「そんな嘘をついて、なんの意味がある」


 キールは呆れたようにウルリカを見る。


「ほら、さっさと探せ。おれはここで待っている」


 そう言うと、キールは湖のほとりにある木へ背中を預け、その場に腰を下ろした。


「え? キールさんも探して下さいよ」


「おれはそんな無駄なことはしない。ほら、時間がないぞ」


 キールは懐からパンを取り出し、一口かじった。


「……もう食べてる」


「腹が減ったんだ」


「もう!」


 ウルリカは呆れたように息を吐いた。


「そんなに大きな湖じゃないから、二手に分かれて回り込んで合流しようか」


 ナクトが湖の奥を指差す。


「オッケー!」


 ウルリカは笑顔で手を振った。


「ナクト、迷子にならないでね!」


「ウルリカこそ」


「私は大丈夫!」


 ウルリカはそう言って、湖の反対側へと走っていった。


「おれはここで待っている」


 キールはパンをかじりながら、二人を見送る。


「さっさと探してこい」


「はい!」


 ナクトもウルリカとは反対方向へ歩き始めた。


 ――そして。


 しばらくすると、ナクトはふと足を止めた。


「……」


 何もない。

 聞こえるのは、木々のざわめきと、自分の足音だけ。

 湖は静かだった。あまりにも静かすぎる。

 ナクトは周囲を見渡したが、人の気配がない。

 ここにも誰もいないのだろうか。

 そう思った、その時だった。


「……ガサッ」


「……!」


 右手の木々の奥から、何かが動く音がした。

 ナクトは息を呑んみ、ゆっくりと、音のした方へ顔を向ける。


「……誰か、いるんですか?」


 返事はない。

 ナクトは短剣に手を添えながら、慎重に木々の奥を覗き込んだ。


 そして――


「……え?」


 そこに、一人の男が倒れていた。

 うつ伏せのまま、ぴくりとも動かない。


「……あの……」


 ナクトの喉が小さく鳴る。

 眠っているのだろうか。


 それとも――


「……死んでる?」


 しかし、すぐに考え直す。

 いや違う。男の姿は、はっきりと見えている。

 輪郭もある。衣服も、髪も、土に汚れた手も。


 これは死霊ではない。


 間違いなく――生きている人間だ。


「大丈夫ですか?」


 ナクトは男の傍らにしゃがみ込んだ。


「……」


 返事はない。


「聞こえますか?」


 もう一度、声をかける。


「……」


 やはり、返事はなかった。

 ナクトは恐る恐る男の肩へ手を伸ばす。


「すみません……少し触りますね」


 その瞬間。


「――ッ!」


 男の指が、僅かに動いた。


「……!」


 ナクトは目を見開いた。

 生きている。


 この人は――生きている。


「ウルリカ! キールさん!」


 ナクトはすぐに立ち上がり、二人の名前を叫んだ。


「人がいました!」


 しかし返事はなかった。


「……あれ?」


 ナクトは振り返る。




 先ほどまで見えていた湖はどこにもなかった。


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