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26.父の背中


樹海へ一歩足を踏み入れた。


「ここが煩悶の樹海……。なんだか普通の森みたいだね」


ナクトは頭上を覆う木々を見上げた。

陽の光は枝葉の隙間から細く差し込み、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。見たところ、どこにでもある森と変わらない。


「そうね。思ってたより――」


ウルリカが言いかけた、その時だった。


ゴオォォッ――。


突風が樹海を駆け抜ける。

木々は悲鳴を上げるように大きく軋み、枝葉が激しくぶつかり合った。

空気が一変する。

肌にまとわりつくような重苦しさが全身を包み込み、森中の鳥たちが一斉に飛び立った。


静寂。


さっきまで聞こえていた虫の声すら、ぴたりと消えていた。


「……少しは気を引き締めろ」


何事もなかったようにキールが歩き出す。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


ウルリカは思わずナクトの袖を掴み、慌てて後を追った。


「……あれ?」


ナクトは足元で立ち止まる。

湿った土に、いくつもの足跡が残されていた。


「人の足跡……」


しゃがみ込んだキールが指で跡をなぞる。


「まだ新しい。数時間……いや、一日も経っていないだろう」


ゆっくりと立ち上がる。


「この森には、まだ誰かいる」


その一言に、森の静けさがいっそう不気味さを増した。


「ねえ……」


ウルリカが胸元を押さえる。


「なんだか、心臓がすごく速くなってきたんだけど……」


「初期症状だ」


キールは振り返らない。


「煩悶の樹海は、恐怖や後悔を少しずつ増幅させる。最初は動悸や息苦しさから始まる」


「えっ……?」


「一番気丈に振る舞う奴ほど、症状が早く訪れる」


キールは淡々と言い放った。


「……大丈夫。ただ、ちょっとドキドキしただけだから」


ウルリカは無理やり笑顔を作る。

だが、その笑みは引きつり、握るナクトの袖は小刻みに震えていた。

ナクトはその震えに気づき、そっとウルリカの手を握り返した。


(最も深い後悔……)


(ぼくにとって、それはジーンとリゼアとの別れしかない)


ナクトは小さく拳を握り締めた。

本当は怖かった。

もし、この森があの日の記憶を映し出したら。

亡国のあの日。ジーンとリゼアが、自分を逃がすために王国へ背いたあの瞬間を、もう一度見せつけられたら――。


(ぼくは……正気でいられるのかな)


胸の奥が締めつけられる。

ジーンとリゼアは、きっとぼくを恨んでいる。

冥継術師であるぼくを逃がしたことで、二人は王国の掟を破った。

その代償として、今も監獄へ幽閉されているはずだ。


助けたい。


今すぐにでも。


けれど、自分にはその力がない。

人助けをすると胸を張って口にしたはずなのに、その言葉とは裏腹に、胸を満たしていくのは焦りと恐怖ばかりだった。


(もし、この森が二人を見せてきたら……ぼくは――)


ナクトは無意識に胸元を押さえ、静かに息をのんだ。


「……」


キールは、一瞬だけ曇ったナクトの表情を見逃さなかった。


「さっさと行くぞ」


ぶっきらぼうな声が森に響く。


「人を助けるんだろ。そんな顔をしていて、誰を助けるつもりだ」


その言葉にナクトははっと顔を上げる。


「……はい」


小さく頷くと、ナクトの表情からわずかに陰りが消えた。


「う、うるさいわね! 言われなくても行くわよ!」


ウルリカは照れ隠しのように声を張り上げ、キールを追い越して先頭へ躍り出る。


「ほら! 二人とも置いてくわよ!」


その背中を見つめながら、キールは小さく息を吐いた。


「……世話の焼けるやつらだ」


誰にも聞こえないほど小さな呟きは、木々を揺らす風に溶けて消えた。



△▽△▽ △▽



しばらく森を進むと、ウルリカがふいに足を止めた。


「これ……」


視線の先には、一足だけ脱ぎ捨てられた革靴が転がっていた。

湿った土に半ば埋もれているが、まだ泥は乾ききっていない。


「この森で彷徨っている人のものかしら……」


ウルリカがしゃがみ込み、恐る恐る靴を見つめる。

キールも足を止め、その靴を見下ろした。


「その可能性が高いな。古いものなら砂や落ち葉がもっと積もっている。これは比較的新しい」


「じゃあ……」


ナクトは地面に残る足跡へ視線を移す。


「この足跡の人は、まだ近くにいるかもしれないんだね」


「そう考えるのが自然だ」


キールは周囲へ鋭い視線を巡らせた。

森は静まり返って風もないのに、どこかで誰かの気配だけが漂っているようだった。


「ねえ……」


ウルリカが胸元を押さえ、小さく息を吐く。


「ちょっと休憩しない……?」


「え?」


ナクトは振り返る。


「ウルリカ、疲れた? 大丈夫?」


「だ、大丈夫よ。ただ……その、水分補給もしないと――」


そこまで言いかけた瞬間だった。

ウルリカの瞳から光がすっと薄れていき、焦点が合わず呼吸もわずかに乱れ始める。


「……ウルリカ?」


ナクトが肩へ手を伸ばす。

しかし返事はない。


ストン――。


糸が切れた人形のように、ウルリカはその場へ静かに膝をついた。




ーーーーーーーー




ウルリカは暗闇の中で目を覚ました。


「……ここ、どこ……?」


辺りを見回しても、何も見えない。


「ナクトー! どこにいるのー!」


声が暗闇の奥へ吸い込まれていく。

返事はない。

ナクトの声も、鳥の声も、風の音さえも聞こえなかった。


「……ナクト?」


もう一度呼んでみるが、やはり返事はない。


「なんなのよ……。ねえ、誰か……」


自分の声が蝋燭の火のように頼りなく揺れ、ウルリカはその場にしゃがみ込み、膝を抱えた。

どれほど時間が経ったのか分からない。

その時だった。


「……リカ」


「……え?」


どこからか声が聞こえた。


「……ウルリカ」


「だ、誰!?」


ウルリカはすぐさま立ち上がり、暗闇を見渡した。


「こっちだ……」


コツ……。


足音が響く。


コツ……。


一歩ずつ、誰かが近づいてくる。


「誰なのよ!」


ウルリカは後ずさる。


「……ねえ、誰なの……」


声が震えた。

そしてその足音は止まった。


「ウルリカ」


その声を聞いた瞬間、ウルリカの身体が硬直した。


「……え?」


暗闇の中から、一人の男が姿を現す。

兵士の鎧に腰に下げられた剣。そして優しく笑う顔。


「久しぶりだな」


「…………」


「大きくなったな、ウルリカ」


ウルリカの瞳が大きく見開かれる。


「……お父さん」


「どうした? そんな顔をして」


男は昔と変わらない笑顔を浮かべている。


「おれが帰ってくるのが、そんなに嬉しかったか?」


「…………」


ウルリカは何も言えなかった。

目の前にいる。

ずっと会いたかった父親が。


「……どうして」


ようやく声を絞り出す。


「どうして……ここにいるの?」


「どうしてって……」


父親は不思議そうに首を傾げた。


「おれは帰ってきたんだよ」


「……違う」


ウルリカが小さく呟く。


「ん?」


「違う……」


父親の笑顔がわずかに曇った。


「お父さんは……帰ってきてない」


「…………」


「帰ってこなかった」


ウルリカは自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。


「だって……知ってるもの」


その声が震える。


「お父さんは……」


ウルリカは拳を握りしめた。


「冥族に殺された」


「…………」


父親は何も言わない。


「村のみんなが教えてくれた」


いつまで待っていても帰ってこなかった父親。


「だから……あなたがお父さんじゃないことくらい分かってる」


ウルリカは杖を構えた。


「あなたは……この樹海が作った幻なんでしょ」


「……そうか」


父親は悲しそうに笑った。


「お前はもう、あの時の小さな娘じゃないんだな」


「…………」


「魔法も、ちゃんと使えるようになったのか?」


「……やめて」


「おれがいなくなってからも、ちゃんと頑張ったんだな」


「やめてよ……」


「偉いぞ、ウルリカ」


「……やめて!!」


ウルリカが叫ぶ。

父親は静かにウルリカを見つめていた。


「お父さんは……」


ウルリカの目から涙がこぼれる。


「私を置いて死んだのよ」


「…………」


「冥族に殺されて……私を一人にした」


父親の姿が、ゆっくりと暗闇の中へ溶け始める。


「私は……冥族を許さない」


「…………」


「絶対に……許さない」


父親の姿が消えていく、その直前。

父親が、ウルリカへ静かに問いかけた。


「……それなら」


「…………」


「なぜ、お前は――」


父親の姿が消える。


「冥族を助けようとしている?」


「…………」


ウルリカは言葉を失った。

暗闇の中に、一人取り残される。


「……違う」


小さく呟く。


「ナクトは……」


「ナクトは……」


しかし、その先の言葉が出てこない。

ウルリカは胸元を押さえた。


「……ナクトは、冥族だけど……」


父親の死を知っている。

冥族が父親を殺したことも知っている。


それでも――


ナクトを見捨てることはできなかった。


「……だって」


ウルリカの頬を涙が伝う。


「ナクトは……ナクトだもん」


ウルリカが顔を上げると、消えたはずの父親が再びそこに立っていた。


「――それでも、お前は冥族を助けるのか?」


ウルリカは顔を上げた。


「…………」


しばらく黙り込んだ後涙を拭い、まっすぐ前を見つめた。


「……うん」


震える声だった。

それでも、今度は迷わなかった。


「私は……ナクトを助ける」



暗闇の中に、しばらく沈黙が流れた。



やがて――


「……そうか」


父親は、昔と変わらない優しい笑顔を浮かべていた。


「お前がそう決めたなら、それでいい」


「……でも」


ウルリカは俯く。


「私……お父さんを殺した冥族を憎んでる」


「知っている」


「今だって……許せない」


「ああ」


「なのに……私はナクトを助けたい」


ウルリカは涙を堪えながら顔を上げた。


「こんな私で……いいのかな」


父親は少しだけ目を細めた。


「いいに決まっているだろう」


「…………」


「お前が誰を憎むのかも、誰を助けるのかも、お前自身が決めることだ」


父親は一歩、ウルリカへ近づく。


「おれのために生きる必要なんてない」


「…………」


「お前は、お前の信じた道を進めばいい」


ウルリカの目から、また涙がこぼれた。


「……お父さん」


「それに――」


父親は、昔のようにウルリカの頭へ手を伸ばす。


「お前がそんな顔をしていたら、その人も心配するだろう?」


「……ふふ」


ウルリカの口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「そうね……。あいつ、すぐ心配するから」


「なら、もう行け」


父親は優しく笑った。


「お前の友達が待っている」


「……うん」


ウルリカは父親を見つめる。


「お父さん」


「なんだ?」


「……私、行くね」


「ああ」


「また……会えるかな」


父親は少しだけ寂しそうに笑った。


「さあな」


「そっか」


「でも――」


父親はウルリカの背中を押すように、一歩近づいた。


「振り返るな」


「…………」


「お前の進む道は、もうおれのいる場所じゃない」


ウルリカは涙を拭い、前を向いた。


「……うん」


一歩、暗闇の中へ踏み出す。


「ウルリカ」


背後から父親の声が聞こえた。


「頑張れ」


ウルリカの足が止まる。


「お前なら大丈夫だ」


ウルリカは振り返らなかった。

ただ、涙を流しながら笑った。


「……うん!」


その瞬間――

暗闇が、眩い光に包まれた。


「行ってこい、ウルリカ」


最後に聞こえた父親の声は、どこまでも優しかった。





「お前の友達を……助けてやれ」






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