24.隠された真実
「ウルリカ!!」
ナクトは倒れ込んだウルリカのもとへ駆け寄り、その身体を抱き起こす。
肩口から流れ落ちる血が、ナクトの両手を赤く染めていく。
「……ウルリカ」
返事はないが、浅い呼吸だけがかすかに聞こえた。
「なんだ、もう終わりか」
中央の魔導士が鼻で笑う。
「威勢だけは良かったが、所詮は小娘。期待外れもいいところだ」
三人の魔導士はゆっくりと歩み寄る。
獲物を追い詰めた獣のような余裕だった。
「そういえば、もう一匹いたな」
男はナクトを見下ろす。
「次はお前だ」
ナクトは俯いたまま動かない。
その口だけが、小さく動いた。
「……近づかない方がいいよ」
「は?」
男は眉をひそめる。
「強がりなら聞き飽きた」
杖を軽く払う。
闇の魔法が一直線にナクトへ放たれた。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……。
ナクトの足元から黒い靄がゆっくりと立ち昇る。
それは煙ではない。まるで無数の死者が身体へまとわりつくように揺らめきながら、ナクトを包み込んでいく。
闇の魔法がその靄へ触れた瞬間、軌道が僅かに逸れ、ナクトの横を掠めて石畳を砕いた。
「……避けた?」
男は思わず目を細める。
「偶然か」
今度は杖を鎌へ変形させ、一気に間合いを詰める。
横薙ぎ、だが。
ナクトの身体がふっと揺れたが、避けようとした様子はない。それでも鎌は紙一重で空を切る。
「……なんだ?」
続けざまに二撃、三撃。
それでも刃は一度も届かない。
ナクトは俯いたまま、一歩、半歩と最小限だけ身体をずらしていた。まるで、自分の意思とは別の何かが身体を操っているようだった。
「ちっ!」
男は距離を取る。
「お前らも来い!」
左右の魔導士が同時に魔法陣を展開する。
炎。
風。
闇。
三つの魔法が一斉に放たれ、轟音と爆煙が広場を覆う。
「終わったな」
誰もがそう思った。
しかし、
煙の向こうから、一人の影がゆっくりと現れる。
服は裂け、腕には無数の傷が刻まれていたが、それでも歩みは止まらない。
「……そんな馬鹿な」
男の声が震える。
ナクトはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は――。
どす黒い闇を閉じ込めたような、深い紫。
底の見えない奈落が、その双眸に宿っていた。
「……つまらない」
ナクトが笑う。
いや。
笑っているのに、その表情から感情だけが抜け落ちていた。
「この程度か」
男は身体中に汗を滲ませ腰を抜かした。
「お前……誰だ」
ナクトは首を傾げた。
「ぼく?」
小さく笑う。
「……いや」
「おれか?」
再び笑う。
「違うな」
その声は、ナクトと誰かが重なって聞こえた。
「お前には関係ない」
「くそっ!」
三人が同時に飛び出す。
その瞬間。
ナクトが一歩だけ踏み込む。
風が鳴った。
ただ、それだけ。
目に見えない圧力に押されたように三人の動きが乱れ、一人の魔導士が体勢を崩す。
その隙を逃さず、ナクトの短剣が男の腹を浅く切り裂いた。
「ぐあっ!」
男は吹き飛び、石畳を転がるのを見て、左右の魔導士は思わず足を止めた。
「……化け物」
誰かが呟く。
ナクトは何も動じず、ただどす黒い紫の瞳で三人を静かに見つめていた。
その視線だけで、空気が凍りつく。
「ナクト!!」
ナクトはゆっくりと視線を落とし、どす黒い紫の瞳が、自分の足元を見つめる。
足首には、血に濡れたウルリカの手がしっかりと握りついていた。
「ナクト……」
震える声だった。
「目を……覚まして」
その声だけは、暗闇の奥まで届いた。
「……うっ」
ナクトの身体が小さく震える。
頭の中で無数の声が響いていた。
奪え、殺せ、燃やせ、逃がすな。
違う、違う、違う。
「……おれは」
頭を抱える。
「ぼくは……」
どす黒い紫の瞳が揺らぐ。
「ぼくは……ナクトだ……」
次の瞬間。
身体から溢れていた黒い靄が音もなく霧散した。
瞳の色もゆっくりと元の薄い紫へ戻っていく。
「う……」
力が抜け、バタリ、とその場へ膝をついた。
「ナクト!」
ウルリカは這うように近寄り、倒れ込むナクトを抱き寄せる。
その様子を見つめていた魔導士たちは、言葉を失っていた。
「隊長……」
一人が震えた声を漏らす。
「……あれは何なんです」
中央の男は黙ったままナクトを睨む。
やがて小さく舌打ちした。
「撤退だ」
「えっ……?」
「聞こえなかったか」
男は目を細める。
「あれは予定外だ」
「だが今なら殺せます!」
「黙れ」
鋭い一喝。
「……次元が違う」
男はナクトから一瞬も目を離さない。
「……あのガキ、ただの人間じゃない」
「冥族……いや」
小さく呟く。
その言葉だけを残し、男は踵を返す。
「今日は引く」
「次に会う時は、必ず殺す」
三人の魔導士は黒煙の中へ姿を消すと、広場には静寂だけが残った。
ウルリカは意識を失ったナクトの頭をそっと膝へ乗せる。
「……ナクト」
頬を伝う涙が一滴、ナクトの額へ落ちた。
その光景を少し離れた時計塔の屋根の上から、一人の青年が腕を組み見下ろしていた。
銀色の髪が風になびく。
細めた瞳は、眠るナクトだけを見据えていた。
「……やはり本物だったか」
キールは静かに呟く。
そして誰にも気付かれることなく、その場から姿を消した。
△▽ △▽ △▽ △▽ △▽ △▽ △▽ △▽
「…………う、う……ウルリカ!!」
ナクトは勢いよくベッドから身を起こし、荒い息を繰り返しながら辺りを見回す。
「は、はいっ!!」
隣で椅子に座っていたウルリカまで思わず背筋を伸ばす。
「……あ」
目が合う。
二人とも数秒固まった。
「えっと……」
ナクトは耳まで赤く染め、小さく咳払いをする。
だが次の瞬間、表情が一変した。
「ウルリカ!」
ベッドから身を乗り出す。
「怪我は!? 傷は大丈夫なの!?」
「あー、それ?」
ウルリカは肩に巻かれた包帯をぽんぽんと叩き、いつもの笑顔を浮かべる。
「もう平気だよ。少し気を失っただけみたい」
その笑顔を見た瞬間、ナクトは大きく息を吐いた。
「……よかった」
全身から力が抜ける。
「本当によかった」
その声は震えていた。
「ごめん……」
ナクトは俯く。
「ぼく、また何もできなかった」
静かな病室に、その言葉だけが落ちる。
「あの後のこと……全然覚えてないんだ」
拳を握る。
まただ。
肝心な時になると、記憶が途切れる。
自分が何をしたのか。何を言ったのか。何一つ思い出せない。
「ぼくって……」
苦笑いを浮かべる。
「一番大事なところで役に立てないね」
その言葉に、ウルリカの胸が締め付けられた。
違う。
役に立たなかったんじゃない。
あなたがいたから、生きている。
でも、今は言えない。
……まだ。
「そんなことないよ」
ウルリカはそっとナクトの手を包み込む。
「ナクト、ちゃんと私を守ってくれた」
「え……?」
「私のところまで必死に駆け寄ってきてくれたじゃん」
それは嘘ではない。
嘘ではないけれど、本当のことも言っていない。
「それに街の冒険者さんたちも駆け付けてくれてね」
「みんなで追い払ってくれたんだよ」
ナクトは少し安心したように笑う。
「……そっか」
「ぼく、一人じゃなかったんだ」
その笑顔に、ウルリカは胸が痛んだ。
(ごめんねナクト。まだ話せない。今はまだ……)
「そうだ!」
空気を変えるようにウルリカは立ち上がる。
「この街にすっごく美味しいケーキ屋さんがあるんだって!」
「退院したら行こ!」
「甘いもの食べれば元気になるよ!」
「……ふふ」
ナクトもようやく笑った。
「そうだね」
「楽しみだ」
その笑顔を見て、ウルリカも笑う。
けれど、ベッドの傍らに立て掛けられた短剣が、ふとナクトの視界に入った。
刃先には、乾き始めた赤黒い血がこびりついている。
「……あれ」
ナクトの笑顔が消える。
ゆっくりと短剣を手に取った。
「血……」
指先でそっとなぞる。
「ぼくの短剣に……どうして血が付いてるんだろう」
ウルリカの肩がびくりと震えた。
「そ、それは……」
一瞬だけ言葉が詰まるが、それでもすぐに笑顔を作った。
「私の血だよ」
「ナクト、私を抱き起こしてくれたでしょ?」
「だから付いちゃったんじゃないかな」
「……そう、なのかな」
ナクトは短剣を見つめたまま呟く。
胸の奥がざわつく。何か大切なものを忘れている。
そんな嫌な感覚だけが残っていた。
ウルリカはその横顔を見つめ、小さく拳を握る。
(ナクト……あなたは……)
△▽△▽ △▽
ナクトは、少し外の空気を吸いたいと医師に伝え、広場のベンチに腰を下ろしていた。
傷はまだ痛む。
それでも、病室の白い壁に囲まれているよりは、こうして外にいるほうが幾分か気が楽だった。
風が頬を撫でる。
遠くでは街の復旧作業をする人々の声が聞こえていた、そのときだったナクトの視界の端に、青い影が映った。
見覚えがある。あの男だ。
魔導士たちに襲われたとき、妻と娘に寄り添っていた男。
男はゆっくりとナクトのもとへ歩いてくる。
「やあ……怪我は大丈夫かい? 巻き込ませてしまって、すまなかった」
男は深々と頭を下げた。
ナクトは周囲を見回す。幸い、近くに人の姿はない。それを確認してから、声を落として答える。
「大丈夫ですよ、ぼくは……あ! それより、奥さんと娘さんは無事ですか!?」
あのときの光景を思い出し、ナクトは慌てて身を乗り出した。
男は穏やかに笑った。
「君たちのお陰で、二人とも逃げることができたよ。本当にありがとう」
「いえ……戦ったのはウルリカなので」
ナクトは苦笑した。
「え? きみだって……」
男は何かを言いかけた。
しかし、すぐに口を閉ざす。
そして、少しだけ視線を落とした。
「私は、この街を護る衛兵だった」
男の声から、先ほどまでの穏やかさが消える。
「しかし、あの魔導士たちに呆気なく殺されてしまった。妻を守ることもできず……そのせいで、妻には大怪我を負わせてしまった」
男は拳を握りしめた。
「本当に……不甲斐ない男だ」
ナクトは何も言わなかった。
男の言葉を聞きながら、その姿をじっと見つめる。
この男は、死んだ。
それでも、まだここにいる。
妻と娘を守れなかった後悔。
また魔導士たちが現れたとき、今度こそ二人を守りたいという願い。
それが、男をこの世に繋ぎ止めていた。
「……そういうことですか」
ナクトは静かに口を開いた。
「あなたがまだここにいるのは……また魔導士たちが現れたとき、今度こそ奥さんと娘さんを守りたいからなんですね」
「ああ」
男は小さく頷いた。
「きっと、そういうことなんだろう」
男は自分の手を見つめた。
「だが、私は何もできなかった。死んでしまった私には、もう何も……」
「そんなことはありません」
ナクトの言葉に、男が顔を上げる。
「あなたは、二人を守ろうとしたんですよね」
男は答えなかった。
「それだけでも……きっと、意味はあったと思います」
ナクト自身、その言葉が正しいのかは分からなかったけれど、男は少しだけ笑った。
「……そうだといいな」
その瞬間だった、男の身体が淡い光に包まれる。
「……あ」
ナクトは息を呑んだ。
男の輪郭が、少しずつ薄れていく。
まるで、風に溶けるように。
「きみたちが魔導士たちを撃退してくれた」
男は穏やかな表情で言った。
「もう、妻と娘が襲われる心配はない」
男の身体が、さらに透けていく。
「これで……私の未練も、晴れたようだ」
「…………」
ナクトは何も言えなかった。
「ありがとう」
最後に、男はもう一度だけ頭を下げた。
「あ……はい」
ナクトの口から出たのは、それだけだった。
男の姿が消える。
そこにはもう、誰もいない。
ただ、風だけが吹いていた。
ナクトはしばらく、その場所を見つめていた。
本当なら、喜んでいいはずだった。
一人の死者を救うことができ、その男はもう苦しむ必要もない。家族を守れなかったという後悔からも、解放された。
なのに――
ナクトの胸には、喜びよりも別の感情が残っていた。
まただ。
また、自分は人を伴ってしまった。
男の姿、その声を思い出す。
妻を守れなかった後悔、娘を守りたいという願い。
自分が抱いていたものではない感情が、まるで自分の記憶のように蘇ってくる。
ナクトは、胸元を強く握りしめた。
怖かった。
このまま死者を引き寄せ続けたら、自分はどうなってしまうのだろう。
いつか自分の中にある記憶と、誰かの記憶の境界がなくなってしまったら、自分の感情なのか。それとも、誰かの感情なのか。
分からなくなってしまったら。
ナクトは俯いた。
――僕は、僕でいられるのだろうか。
風が吹き抜ける。
その冷たさに、ナクトは小さく身を震わせた。




