23.迫り来る災厄
轟音が響いた方角から、人々が悲鳴を上げながら雪崩を打つように逃げてきた。
「逃げろ!」
「虐殺の魔導師だ!」
「早くこっちへ!」
誰もが顔を青ざめさせ、我先にと駆け抜けていく。
その人波の奥。
立ち昇る黒煙の中から、三つの影がゆっくりと姿を現した。頭から足先まで漆黒のローブを纏い、深く被ったフードの奥は闇に溶け込んでいる。
顔は見えない。ただ、口元だけが不気味に吊り上がり、獲物を見つけたように笑っていた。
「虐殺の魔導師……!」
男の声は震えていた。
「また来たのか……」
「虐殺の魔導師? 何よ、それ!」
ウルリカは状況が飲み込めず叫ぶ。
だがナクトは返事ができなかった。全身が強張り、息が浅くなる。胸の奥で、本能が警鐘を鳴らしていた。
――危ない。
その時だった。
「きみ……!」
男がナクトへ駆け寄る。もちろん触れることはできない。
それでも必死だった。
「お願いだ……!」
男はナクトの前で膝をつき、深々と頭を下げた。
「妻と娘を……どうか守ってくれ……!」
ナクトは男を見るが、すぐに視線を逸らした。
(まただ……)
(また願いを託される)
脳裏に蘇るのは山賊の記憶。
頭の中へ流れ込んできた、あの狂気。
ウルリカへ刃を向けたかもしれない恐怖。
願いを叶えれば、また誰かの人生を背負うことになる。また、自分が自分でなくなるかもしれない。
(怖い……)
(もう嫌なんだ)
「ナクト!」
ウルリカが一歩前へ出て杖を構える。
「よく分かんないけど、あいつらが悪いやつなら私が倒す!」
杖を握る手は震えていない。
「私は将来、騎士団に入る魔法使いなんだから!」
「無理だ!」
ナクトは咄嗟にウルリカの袖を掴んだ。
「相手は三人もいる! 逃げよう!」
「ナクトは逃げて」
ウルリカは振り返り、いつものように笑った。
「私は絶対に負けない」
「約束するから」
その笑顔が痛かった。
まただ。またウルリカだけが前へ出る。また自分だけが守られる。
男の懇願する声が耳に届く。
「お願いだ……」
「どうか、あの二人だけは……」
少女は母親の手を必死に握り締め、怯えながら立ち尽くしている。
ナクトはぎゅっと短剣を握り締めた。
怖い。逃げたい。
それでも……。
ゆっくりと顔を上げる。
「ぼくは……」
震える声だった。
それでも、その瞳だけは真っ直ぐ前を向いていた。
「ぼくは守ります」
男は息を呑む。
「あなたの奥さんも、娘さんも」
「そしてウルリカも」
「誰一人、死なせません」
男は目を潤ませ、小さく笑った。
「……ありがとう」
その言葉だけを残し、男は妻と娘の傍らへ戻る。消えることはない。
ただ、二人を静かに見守りながら、ナクトを信じるように頷いた。
ナクトは短剣を構える。
向かいでは、黒衣の魔導師たちがゆっくりと歩みを進めていた。
街を覆う静寂は、次の瞬間には血煙へと変わろうとしていた。
「行くよ、ナクト!」
「……うん!」
恐怖で足が震える。それでも逃げるわけにはいかなかった。
三人の魔導師は黒煙の中からゆっくりと歩み寄ってくる。
その足取りには一切の迷いがない。まるで、目の前にいる人間など初めから敵ですらないと言わんばかりだった。
中央に立つ男が、ゆっくりと口を開く。
「そこをどけ」
低く冷え切った声。
「虫けらは虫けららしく逃げ惑っていろ。もっとも、一匹たりとも逃がすつもりはないがな」
その言葉だけで周囲の空気が凍りついた。
街の人々は悲鳴を上げながら散り散りに逃げていく。
「虐殺の魔導師って……あんたたちのことなの?」
ウルリカは杖を握り締め、一歩前へ出る。
「だったら、この先には行かせない」
魔導師は鼻で笑った。
「小娘一人で何ができる」
「試してみる?」
ウルリカは口元を吊り上げた。
「こう見えても依頼は何件もこなしてきたの。魔獣だって倒してきたんだから」
「魔獣か」
男は肩をすくめる。
「獣を数匹狩った程度で、おれたちと肩を並べたつもりとは滑稽だ」
「やってみなきゃ分からないでしょ!」
ウルリカが杖を高く掲げる。
「――《グレア・ランス》!」
炎が渦を巻き、一条の槍となって魔導師へ突き進む。
轟音と共に石畳が砕け、熱風が広場を吹き抜けた。
だが。
男は避けようともしない。
炎が届く寸前、黒い靄が身体を包み込み、紅蓮の槍は音もなく飲み込まれた。
「……え」
ウルリカの表情が固まる。
「終わりか?」
「まだよ!」
間髪入れず魔法陣を展開する。
「《ライトクラウン》!」
稲妻が幾筋も降り注ぎ、広場一帯を白く染めた。
さすがに今度は当たる。
そう思った。
しかし雷鳴が消えた先で、魔導師は立っていた。
黒いローブには焦げ跡一つない。
「悪くない」
男は初めて小さく笑った。
「少しは楽しめそうだ」
その瞬間だった。
左右の魔導師が同時に杖を掲げる。
赤い魔法陣。
緑の魔法陣。
二つの光が重なる。
「ナクト!」
ウルリカは咄嗟に前へ飛び出し、杖を地面へ突き立てた。
「《プロテクタス》!」
淡い蒼色の障壁が二人を包む。
直後。
ドォォォンッ!!
凄まじい衝撃が広場を揺らし、障壁が激しく軋み、ひび割れが走る。
「……っ!」
ウルリカは歯を食いしばり、額から汗が流れ落ちる。
(重い……!)
(なんて魔力なの……!)
それでも障壁は砕けない。
「まだ……!」
魔力を注ぎ込み、必死に支え続ける。
その姿を見て中央の男はつまらなそうにため息をついた。
「やれ」
その一言だけ。
左右の魔導師が再び杖を振り、今度は三つの魔法陣が重なった。
黒。
紅。
翠。
三色の魔力が一つとなり、巨大な奔流となって押し寄せる。
「しまっ――」
ウルリカの瞳が揺れた。
限界だった。
障壁が悲鳴を上げる。
――パリン。
硝子が砕けるような音が響く。
次の瞬間、禍々しい光がウルリカの肩をかすめた。
鮮血が宙へ舞う。
「っ……!」
身体が大きく弾き飛ばされ、石畳の上を転がる。
杖が乾いた音を立てて地面へ落ちた。
「ウルリカ!」
ナクトの叫びが広場に響き、ウルリカは震える腕で身体を起こそうとするが、それでも力は入らない。
滲む視界の中、それでもナクトだけを見つめる。
「……逃げて」
かすれた声だった。
ナクトは倒れたウルリカを抱き起こす。
肩から溢れる血が、震える両手を赤く染めていく。
「……ウルリカ?」
呼びかけても返事はない。
その瞬間――
ナクトの中で、何かが音を立てて壊れた。




