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22.最後の願い


病み上がりの身体を引きずるように、ナクトは医療所へ戻った。

診察室の奥にある病室へ入ると、薄い敷布団が敷かれた固いベッドへそのまま身を預ける。軋んだ木枠が、小さく音を立てた。


(あの時……)


決闘の最後。刀を抜いたキールは、確かに自分を見ていた。

いや、見ていたのは短剣でも構えでもない。


ぼくの目を――。


「……何だったんだろう」


考えれば考えるほど胸の奥がざわつく。理由の分からない違和感だけが、喉に小骨が刺さったように残っていた。


「ナクト」


隣へ腰を下ろしたウルリカが、心配そうに顔を覗き込む。


「具合はどう?」


「うん、大丈夫」


ナクトは小さく笑う。


「心配かけてごめんね」


「ほんとだよ」


ウルリカはほっと息を吐くと、部屋の入口をちらりと見た。誰もいないことを確認すると、ナクトへぐっと顔を寄せる。


「ねえ」


「?」


「あいつに見つかる前に、この街から逃げちゃわない?」


「え?」


「だって金払えって言ってくるじゃん」


悪戯っぽく笑い、親指を立てる。


「今ならまだ間に合うって!」


ナクトは苦笑した。


「そんなことしたら、さすがに――」


「誰から逃げる?」


低く落ち着いた声が、病室へ静かに響いた。

二人の動きが止まる。


「もちろん、あのキザな男――」


ウルリカは笑ったまま振り返り、そして固まった。

病室の入口に黒い外套を羽織った青年が腕を組んだまま静かに立っていた。


「……」


「……」


気まずい沈黙が流れる。


「えっと……」


ウルリカはぎこちなく笑う。


「いつからいたの?」


「最初からだ」


「……聞いてた?」


「全部だ」


「…………」


病室に重い沈黙が落ち、ナクトは思わず目を逸らす中、ウルリカだけが乾いた笑いを浮かべた。


「……怪我か」


キールはナクトの足元へ視線を落とす。


「あの程度の立ち合いで負傷するとは思えない」


「違うわ!」


ウルリカが勢いよく立ち上がる。


「ナクトは病み上がりだったの! 最近ずっと体調を崩してて、今日だって過労だって診断されたばかりなんだから!」


キールは黙って聞いている。


「だから万全なら――」


ウルリカは胸を張る。


「あんたなんか負けてたわ!」


「ほう」


キールは眉一つ動かさない。


「つまり万全なら、おれに勝てると言いたいのか」


「そうよ!」


即答だった。


「ちょ、ちょっとウルリカ!」


ナクトは慌てて止める。


「ぼく、そんなこと一言も――」


「言わなくても私が思ってる!」


ウルリカは腕を組み、キールを真っすぐ睨み返すと病室に再び静寂が訪れる。

その沈黙を破るように、キールがゆっくりと歩き出した。


コツ。コツ。


靴音だけが病室へ響く。


ナクトの目の前で立ち止まる。

近い。

息遣いすら感じられる距離。キールは何も言わず、ただ静かにナクトの瞳だけを見つめていた。


「……」


その視線に、ナクトは思わず息を呑む。

まるで心の奥底まで覗かれているようだった。


「……どういうことだ」


ぽつり、と。

誰に聞かせるでもなく呟く。


「え?」


「ぼ、ぼく……何かしましたか?」


キールは答えずわずかに目を細め、何かを考え込む。


「そんなはずはない」


小さく呟き、ゆっくりと踵を返した。

黒い外套がふわりと揺れ、病室を出る寸前に不意に足を止めた。


「……妙だ」


それだけを残し、扉の向こうへ姿を消す。

静まり返った病室で、ウルリカは大きく息を吐いた。


「なんなのよ、あいつ……」


怒ったように扉を睨みつける。


ナクトは何も答えられなかった。

決闘の時も。今も。キールは一度も剣を見ていない。

見つめていたのは、ずっと――自分の瞳だった。


(……どうして、あの人はあんなにぼくの目を見ていたんだろう)



△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽



二日が過ぎ、十分に身体を休めたおかげでナクトの体力はようやく元に戻り始めていた。

その間、ウルリカは一人で依頼を受けていた。


スライム討伐。薬草採集。畑を荒らす魔獣退治。

危険の少ない依頼ばかりだったが、こつこつと報酬を積み重ね、旅を続けるには十分な額を稼いできた。


もちろん、ナクトは何度も止めた。


「一人で行くのは危ないよ」


そう言っても、


「大丈夫、大丈夫!」


ウルリカは笑いながら手を振りそのまま依頼へ飛び出してしまい、結局一度も引き止めることはできなかった。


「これでしばらくは食べ物に困らないね」


革袋の中で鳴る硬貨の音に、ウルリカは嬉しそうに笑う。


「今日はいっぱい買おう!」


「あんまり使いすぎないようにね」


「分かってるってば」


二人は笑い合いながら、市場へ続く石造りの階段をゆっくりと下り始めているとその少し前を、一組の親子が歩いている。

母親と、まだ十歳にも満たない小さな娘。

母親は足を悪くしているのか一本の杖へ体重を預けながら、一段一段慎重に階段を下りていた。娘は転ばないよう母親の腕を支え、小さな身体で懸命に歩幅を合わせている。


(優しい子だな)


自然と頬が緩む。

その時だった。ナクトの足が止まる。


「……え」


母親を支える手は、娘のものだけではなかった。

もう一本。淡く青白い手が母親の背へそっと添えられている。透き通るような腕。人ではない。それでも、その手はとても優しかった。

転ばないように、苦しまないように、母親の歩みに合わせ静かに支え続けている。


ナクトは息を呑み周囲を見回すが誰も気づいていない。


母親も娘もすれ違う人々も。まるで、その存在が最初から見えていないかのようだった。


青い手の持ち主は、母親の隣へ静かに寄り添っている。輪郭はぼんやりとしていて顔までは分からないが、それでもその姿からは不思議と恐ろしさは感じなかった。

どこか懐かしくどこまでも優しい空気だけが漂っていた。


「ナクト!」


前を歩いていたウルリカが振り返る。


「何ぼーっとしてるの? 早く行こ!」


「あっ……う、うん」


慌てて返事をし、もう一度だけ親子へ視線を向ける。

母親は杖をつきながら歩き、娘はその身体を支えている。

そして、その隣には今も変わらず青白い"誰か"が静かに寄り添っていた。


(……あの人は、一体)


胸に小さな疑問だけを残したままナクトはウルリカの後を追い、人混みの中へと歩き出した。




「やっぱりパンがいいかなあ。でもすぐカビちゃうし……。干し肉? でもそればっかりじゃ飽きるよねぇ」


市場を歩きながら、ウルリカは腕を組んで唸る。


「ねえナクト。何が食べたい?」


返事はない。


「ねえ」


ちょん、と袖を引く。


「聞いてる?」


「あっ!」


ナクトは我に返った。


「ご、ごめん! えっと……腕時計買わないと」


「…………」


ウルリカがじっと見つめる。


「ねぇ」


「はい」


「今、私そんな話してた?」


「…………」


ナクトは静かに俯いた。


「ごめんなさい」


「まあ、いいけど」


ウルリカはため息をつきながら苦笑する。


「でも、さっきから変だよ? 何か気になることでもあるの?」


「いや、本当に何でもないよ」


「ナクトが”何でもない”って言う時は、大体何かあるんだよね」


悪戯っぽく笑う。

逃げ切れない。

ナクトは困ったように頭を掻き、そっと親子の方を指差した。


「あの人たちがどうかした?」


「……足、悪いのかなって」


ウルリカも親子を見る。


「あ、本当だ」


杖をつきながら歩く母親をその身体を小さな娘が懸命に支えている。


「大変そうね……」


「うん……」


ナクトの視線は、その隣にいた。

青白い影。母親へ寄り添い続けるその存在だけを見つめる。


その時だった。


ぴたり。

青い影が歩みを止め、ゆっくりと首だけがこちらを向いた。


ナクトの背筋が凍る。


(……見られた)


影はしばらくナクトを見つめている。

そして、一歩、また一歩。

静かに近づいてきた。

近づくにつれ、ぼやけていた輪郭が少しずつ鮮明になっていく。

痩せた身体に穏やかな表情のそれは三十代ほどの男だった。

男は恐る恐る口を開く。


「……もしかして」


震える声だった。


「君には……僕が見えているのかい?」


ナクトは答えない、いや答えられない。

すぐ隣ではウルリカが野菜を手に取り、値札を眺めている。

ナクトは悟られないよう、小さく一度だけ頷いた。

その瞬間、男の目が大きく見開かれる。


「……本当に?」


もう一度。

ナクトは小さく頷く。

男はしばらく言葉を失っていた。


やがて。

目尻を緩め、泣きそうな笑顔を浮かべる。


「……よかった」


その一言だけだった。


「もう誰にも見えないものだと……思っていた」


震える声には、長い孤独が滲んでいた。


「ありがとう」


男は何度も小さく頷く。


「久しぶりだ……誰かと話せるのは」


ナクトは言葉を返さない。

返せない。

それでも男は嬉しそうだった。

ほんの小さな相槌とたった一度の頷き、それだけで十分だったのだ。


「ありがとう……本当にありがとう」


男は何度も頷き、目尻を潤ませながら笑った。


「もう誰とも話すことなんてできないと思っていたんだ」


その笑顔は、長い孤独からようやく解放された者だけが浮かべられる、安堵に満ちたものだった。

ナクトも優しく微笑み返す。

男はゆっくりと振り返り、商店街へ向かう親子へ視線を送る。


「見えているかな」


ナクトもその先を見る。

杖をつきながら歩く母親。その歩幅に合わせるように寄り添う幼い娘。そして、その傍らには男が静かに付き添っていた。


「あの二人が、私の妻と娘なんだ」


誇らしげな声だった。

けれど、その横顔には拭いきれない寂しさが滲んでいる。


「本当は毎日『行ってらっしゃい』も『おかえり』も言っているんだ。でも、誰にも届かない」


男は小さく笑う。


「だからせめて、こうして隣を歩くことしかできない」


ナクトの胸が締め付けられる。

男は再びナクトへ向き直った。


「君に、一つだけ頼みたいことがある」


ナクトは迷うことなく頷く。

男は親子を見つめながら静かに言った。


「もしもの時は……あの二人を守ってくれないか」


ナクトは思わず男の顔を見る。


(もしもの時……?)


男は唇を噛み締め、小さく息を吐いた。


「実は最近、この街で――」


――ドォォォォォン!!!


大地を揺るがす轟音が街中へ響き渡る。建物が激しく震え、窓ガラスが一斉に鳴った。


「きゃああああっ!」


遠くで悲鳴が上がり、鳥たちが空へ飛び立ち黒煙が空高く立ち昇る。


「ナクト! 今の音、何!?」


ウルリカは抱えていた買い物籠を落とし、爆発の方角へ振り向く。


「分からない……!」


ナクトも息を呑み、黒煙を見つめる。

逃げ惑う人々。鳴り響く悲鳴。

穏やかだった街が、一瞬で恐怖に染まっていく。


その時だった。


男の表情から血の気が引き、身体が小刻みに震え始める。黒煙の向こうを見つめたまま、震える声で呟いた。


「…………来た」


男は震える拳を握り締め、絞り出すように言った。


「やつらだ」



「――虐殺の魔導士」




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