21.見定める瞳
「キール? どんな人なの? みんな、さっきから顔色悪いけど」
ウルリカが不思議そうに首を傾げる。冒険者の男は腕を組み、小さく息を吐いた。
「……"刀"だ」
「刀?」
「ああ。あいつは自分の得物をそう呼んでいる。大剣とも槍とも違う、見たこともねぇ細長い剣だ」
男は遠い記憶を思い返すように目を細める。
「相手の太刀筋を外し、一撃で仕留める。ただそれだけだ」
「それだけ?」
ウルリカが眉をひそめる。
「だから恐ろしいんだよ」
男は苦笑した。
「腕に覚えのある冒険者が何人も挑んだ。だが結果は全部同じだった」
「全部……?」
「全戦全勝。一太刀で終わる」
その場にいた冒険者たちは誰一人として笑わない。静まり返った空気に、ナクトは思わず喉を鳴らした。
「でも……」
恐る恐る口を開く。
「さっき、会うこと自体が運が悪いって言っていましたよね」
「ああ、それは――」
男が言葉を続けようとした、その時だった。
ざわっ――。
広場の空気が変わる。
さっきまで騒いでいた冒険者たちが、一斉に口を閉ざした。
誰からともなく道が開く。
石畳を踏みしめる乾いた足音だけが、ゆっくりと近付いてくる。
「……来た」
誰かが小さく呟いた後、ナクトは振り返る。
黒い外套をまとい、灰銀色の髪を揺らす背の高い青年。
腰には一本だけ差された細身の刀。鞘には幾重もの傷が刻まれ、長年使い込まれた武器だということが一目で分かる。
青年は周囲など気にも留めず、そのまま掲示板の前まで歩いてきた。
「ちょっと!」
ウルリカが両手を広げ、青年の前へ立ちはだかる。
「今、大事な話をしてるの! 少し待ってくれない?」
青年はウルリカを一瞥するが、その瞳には感情の色がほとんどなかった。
「……終わったか?」
短い一言。
それだけで空気が張り詰める。
「な、何その言い方!」
ウルリカが頬を膨らませるが、青年は返事をしない。
ゆっくりと視線をナクトへ向けた。
その瞬間だった。
(……なんだ、この人)
全身を見透かされるような感覚が走る。背筋に嫌な汗がつたい、思わず息を呑んだ。
男の視線はほんの一瞬だけナクトの瞳を捉え――何かを確かめるように細められた。
だが、それ以上は何も言わない。何事もなかったかのように視線を外す。
「あ、あの……」
沈黙に耐え切れず、ナクトが口を開く。
「もしかして……あなたが、キールさんですか?」
青年は数秒、黙ったままナクトを見つめていた。
やがて、わずかに口元を緩める。
「……」
「そうだ」
短く答える。
その名が告げられた瞬間、広場はしんと静まり返った。
ウルリカは一歩前へ出ると、杖を構えた。
「決闘なら私が受けて立つわ!」
キールは視線だけを向ける。
「……断る」
「は?」
「女とはやらない」
「なっ……!」
ウルリカは目を見開く。
「私じゃ勝てないって言いたいの!?」
「違う」
キールは淡々と言い放つ。
「斬らないと決めているだけだ」
その言葉に嘘も見栄もなかった。ただ、自分の中の掟を口にしただけ。
キールは再びナクトへ視線を戻す。
「お前だ」
「え?」
「剣を抜け」
ナクトは困惑したまま短剣へ目を落とす。
「さっさと構えろ」
静かな声だった。
だが、その一言だけで広場の空気が凍り付く。
「掛け金は十万ギルム」
誰も笑わない。誰も止めようとしない。冒険者たちはただ黙って、ナクトの返事を待っていた。
(……運が悪いというのはこういうことか)
「や、やるわけないじゃないですか……」
ナクトは慌てて両手を胸の前で振り、一歩、また一歩と後ずさる。
「決闘なんて……ぼくじゃ絶対に勝てません」
キールは逃げるナクトを静かに見つめたまま、表情一つ変えない。
「断ることはできない」
「え……?」
「お前たちは、おれの前に立ちはだかった」
淡々とした声だった。怒っているわけでも、威圧しているわけでもない。
ただ事実だけを告げている。
「おれの時間を奪った」
キールは小さく息を吐く。
「おれの時間を金で返せ」
「何言ってるの!?」
ウルリカが思わず声を荒らげる。
「十万ギルムも払えませんし、戦う理由もありません!」
ナクトも必死に食い下がる。
「くどい」
キールは短く答えた。
静寂が落ち、キールはゆっくりと刀の柄へ右手を添えた。
鞘から刃を抜くことはない。それでも、その場の空気が凍り付く。
「構えろ」
その一言は静かだった。
それなのに、ナクトの足は地面へ縫い付けられたように動かなかった。
「……分かりました」
ナクトは観念したように小さく息を吐く。
「どうやら、逃げることはできそうにありませんし」
腰へ手を伸ばし、ゆっくりと短剣を抜いた。前に立ち寄った街で買った、一番安い短剣。刃にはまだほとんど傷がなく、新品同然だった。
「ナクト!」
ウルリカが慌てて腕を掴む。
「あいつ、本気よ! こんなの受けちゃ駄目!」
「でも……」
ナクトは困ったように笑う。
「……このままじゃあどっちにしろ十万ギルム払うことになりそうだし」
「そんな問題じゃない! その時は私がやっつけてあげるから!」
ウルリカの声が広場に響く。
それでもナクトは首を横に振った。
「ごめんね、ウルリカ」
静かに腕をほどき、一歩前へ出る。
その間も――
キールは一度たりともナクトの瞳から視線を逸らさなかった。
見ているのは剣ではない。構えでもない。
まるで、その奥に何かを探しているようだった。
「……そこだ」
ナクトは足を止める。二人の距離は、およそ三メートル。互いの息遣いがかすかに届く間合いだった。
「一対一は初めてか」
「はい」
ナクトは俯く。
「というか……戦うこと自体、ほとんど初めてです」
頼りなく短剣を構えるがその姿に隙しかない。
周囲の冒険者たちは固唾を呑み、誰も口を開こうとはしなかった。
キールだけが、静かにナクトを見据えている。
その瞳はなおも、ナクトの瞳だけを映していた。
「この噴水の水が次に噴き上がった瞬間、それを合図に始める」
キールは広場の中央にある石造りの噴水を顎で示した。
「……はい」
短剣を握り直すナクトの手のひらは汗で湿っていた。
向かい合う二人の間に、重苦しい静寂が落ちる。
誰も口を開かない。広場に響くのは、水が流れる音だけだった。
やがて――
プシュウゥッ!
勢いよく噴水が空へ水柱を噴き上げる。
「始まった!」
誰かが叫ぶ。
「行けー! ナクトー!」
ウルリカの声だけが広場いっぱいに響いた。
「お、おりゃあっ!」
ナクトは地面を強く蹴り、一気に間合いを詰める。握り締めた短剣を振り上げ、そのまま真っすぐ振り下ろした。
シュッ――。
「……あれ?」
手応えがない。
目の前にいたはずのキールが消えていた。
「こっちだ」
背後から静かな声が聞こえる。慌てて振り返ると、キールはいつの間にか数歩後ろへ移動していた。
刀はまだ鞘に収まったまま。
「え……いつの間に」
ナクトは目を見開く。
周囲の冒険者たちからどよめきが上がった。
「見えたか?」
「いや、全然」
「やっぱりキールだ……」
誰も、その動きを捉えられていなかった。
ナクトは歯を食いしばり、何度もキールへ突撃する。それでも刃は虚しく空を裂くだけで、その身体に触れることすら叶わない。
「ナクトー! まだ終わってないよ!」
ウルリカだけが両手を振り、大きな声で叫ぶ。
その声に、ナクトは深く息を吸った。
「キールさん」
短剣を握り直す。
ウルリカの熱を帯びた声援が、ナクトの胸に闘志の炎を灯した。
「ぼくは弱いです。でも……最後まで諦めません」
キールは静かに頷く。
「来い」
右手を軽く動かし、ナクトを招く。その姿には一切の隙がなかった。
「行きます!」
再び地面を蹴る。
一歩。二歩。三歩。
その瞬間だった。
ドクン――。
キールの胸が、不意に脈打つ。
(……何だ)
ナクトの瞳。
その奥で、紫色の光が一瞬だけ揺らいだ気がした。
ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け上がる。身体が勝手に反応した。
キィン――ッ!
刀が鞘から抜き放たれる。ほぼ同時に、キールは大きく後方へ飛び退いていた。
「っ……!」
着地したキールの瞳が、わずかに見開かれ広場が静まり返る。
誰も何が起きたのか分からない。
「くっ……」
ナクトはその場で体勢を崩し、膝をついた。
「やっぱり……全然だめだ」
短剣を握る手が小さく震える。
「だから言っただろ」
冒険者の一人が肩をすくめる。
「キールに勝てる奴なんて、この街にはいねぇよ」
「帰るか」
野次馬たちは興味を失ったように、その場を後にしていく。
「ナクト!」
ウルリカが真っ先に駆け寄る。
「怪我してない!?」
「う、うん……」
ナクトは照れくさそうに笑った。
「転んだだけだから」
その笑顔を見て、ウルリカはようやく胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間、ナクトの顔から血の気が引いた。
(そうだ……)
掛け金。十万ギルム。
恐る恐るキールの方へ振り向く。
「あ、あの……キールさん」
ぎこちなく頭を下げた。
「十万ギルムなんですけど……その……分割払いでも大丈夫ですか?」
返事はない。
「……キールさん?」
キールは刀を抜いたまま立ち尽くしていた。
視線はただ一点。ナクトの瞳だけを見つめている。
やがて我に返ったように、小さく息を吐く。
カチリ――。
刀を静かに鞘へ納めた。
「……やはり」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。しかし、その瞳には決闘前にはなかった確信が宿っている。
キールはナクトを真っすぐ見据え、ゆっくりと口を開いた。
「お前――」
その言葉の続きを、彼は飲み込んだ。
広場には、再び静寂だけが流れていた。




